2017年07月24日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想7)








原田政彦ことファイティング原田は本名でボクシングすることを知られるのが恥ずかしかったというシャイな側面があった。その誰もが親しみやすい個性が人の良さまるだしであることも確かで、わたしが大阪太融寺のスナックに通っていたころ40前に、オーナーはファイティング原田氏のエピソードを良く聞いたという。そのボクサーとしての誇りは東亜ファイティングジム経営者になっても変わらず、酒の席での用心も万全で、現役時代の常で節制的だったという。

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減量苦もありポーン・キングピッチとのリターンマッチに負けるとバンタム級に上げて再起をはかり二階級制覇をめだす。最初の壁になったのはバンタム級にあげていた関光徳を「ロープ際の魔術師」の異名でカウンターでKOしたジョー・メデルだった。ジョー・メデルはメキシコのバンタム級選手としては特異な存在で、カウンターの名手だった。相手を誘いときには下がりロープ際に詰められたフリをして、カウンター一発で状況を変え相手を倒すというボクシング技術に長けていたのだ。

バンタム級の上位ランクになりジョー・メデルには完敗のKO負けをした。ファイティング原田は自分をふりかえり、まだ十分にバンタム級のパワーに対抗しうる基礎体力がないことを痛感してパワーアップと持ち味のラッシュをつづけるスピードの両方を磨くことに専念した。

1965年5月18日の愛知体育館でのエデル・ジョフレへの挑戦だった。当時のエデル・ジョフレ(ブラジル)は黄金のバンタム≠フ名にふさわしい成績だった。17連続KO勝ちで8度防衛。その中にはジョー・メデルを2度KOの記録もふくまれていた。

ファイティング原田がバンタム級転向後パワーアップしてその速さとスタミナを倍増していたとはいえ、多くのファンはミスマッチではないかと危惧した。事実、青木勝利は1963年4月に蔵前国技館に来日したエデル・ジョフレに3回にKOされており、日本中のボクシングファンはその強さをテレビの前で知らしめられた。

あちきの家にも白黒14インチテレビはすでにあり、居間兼座敷の床の間に置かれたテレビを見てそのシーンを蘇らすとエデル・ジョフレの強さを見せつけられ天才ハードパンチャーのフライ級三羽烏で売り出していた青木勝利の練習嫌いでは相手にならなかったことを実感したものだ。

当時の青木勝利は20歳。しかも一度の負けしかない。36勝21KO1敗1分の好成績だったので天才といわれていたのだ。

1960年6月6日、プロデビュー。1961年4月5日、海老原博幸と対戦し、2回KO負け。キャリア18戦目での初黒星となった(16勝1敗1分)。

1962年10月29日、東洋バンタム級王座に挑戦。王者米倉健志を破り19歳で王座獲得。この試合で海老原戦以降20連勝を達成。

1963年4月4日、蔵前国技館で世界バンタム級王座に挑戦。王者エデル・ジョフレ(ブラジル)に、ほとんど鍛えていなかったボディを狙われ3回KO負け。1962年に現地で出版されたエデル・ジョフレの伝記の再版が1979年に発行された際、その表紙でこの試合の写真が使われた[1]。1963年9月5日、東洋王座初防衛戦。カーリー・アグイリー(フィリピン)に9回KOで敗れ王座陥落。(ウィキペディア)


「ジョフレの鋭くえぐった左フック、レバー打ちで、メガトン・パンチ≠フ青木が悶絶した。」(1945年〜1985年 激動のスポーツ史)ボクシング特集ムックボクシング編

ラッシュをかけて圧力をかけようとしたが青木はジョフレの防御技術の前に簡単にさばかれた。

そして3回、クリンチ際からのジョフレの左で青木はダウン。

再度おなじパンチをボディに浴び青木勝利は沈んだ。ジョフレ6度目の防衛は、
「天才、青木を軽く料理したジョフレの強さは圧巻だった」ボクシング特集ムックボクシング編(1945年〜1985年 激動のスポーツ史)が戦況を短く伝える内容はあちきの脳裏にも植えつけられたものだ。


しかし8度防衛して17連続KO勝ちのエデル・ジョフレは自信満々の来日だった。

ノンタイトル戦ではバンタム級に復帰したあおの矢尾板貞雄のボクサーファイトに苦戦したこともあったが10回にはKO勝ちしている。

大方のの予想を上回ってファイティング原田一ラウンドの開始早々から攻めた。風車の回転の速さにパワーも加わり4ラウンドには王者ジョフレをKO寸前にまで追い詰めた。テレビ朝日『ザ・インタビュー』では当時の映像が映しだされた。実際ファイティング原田のラッシュは凄まじいパワーアップだった。原田会心の右アッパーからラッシュはKO勝ちするかの勢いだったことを改めて呼び起こした。

しかし、5Rになるとジョフレの反撃が始まった。ファイティング原田は強引はジョフレの連打にクリンチで耐えた。そして試合は一進一退のあと15ラウンドまで闘い小差の2対1の判定勝ち。3分けで負けたことがないジョフレはそのファイティング原田を賞賛すべく抱きかかえて祝福した。そのスポーツマンシップに65%の視聴率だったという日本国中のファンも感動した。

判定 エドソン71対72 原田●
   加  藤72対70 原田○
ロ  ス71対69 原田○

(当時は5点制 5対5引き分けがあった。現在の10点制マストシステムとは異なる)

再戦のリターンマッチはファイティング原田がイギリスビートルズカットのアーティストのアラン・ラドキンを迎えてから後のことだった。1965年11月30日日本武道館で行われた。当時、ビートルズ・ブームが日本でも起りアラン・ラドキンスの来日はビートルズを迎えるような雰囲気だったのを懐かしく思いだす。

http://tsugu.cside.com/b-ken/history2/1966a.html

1ラウンドにダウンを奪ったファイティング原田はKOこそ逃したがビートルズ来日前のイギリスの技巧派を圧倒しての判定勝ち初防衛をして、エデル・ジョフレとの再戦を迎ええることになった。


1966年5月31日日本武道館でのことだ。あちきは就職して、その日は寮で無理をいって見せてもらった。内容は成長して自信をもったファイティング原田が序盤からラッシュ戦法で攻勢を続けた。ファイティング原田のボクシング中継はテレビ中継すれば60%にまで達するコンテンツの時代新人のあちきがボクシング好きで残業当たり前の仕事を中断して見せてもらえるのかどうか心配だったのだが、上司や寮生も見たかったので、そのことが許されのだった。家に帰るのいつも終電前後があたりまえだったので、家で見ることはできなかったのだ。ファイティング原田はまだ23歳だった。

戦評をみてみよう。

「原田のラッシュ戦法が再び競合ジョフレを打ち破った。タイトル奪回を目指すジョフレと原田は序盤から打ち合いを展開。5回に原田の右ストレート2発からジョフレは守戦一方10回には逆にジョフレの右フックで原田が泳ぐといった好打の応酬が続いた。6回にバッティングで左目を切っているジョフレは、終盤に入って衰えが目につき始めた。14回、原田は激しい左右連打でジョフレをロープに釘付けにして決定的にポイントを奪った。

採点 羽 後71対69  原田○
   ポップ69対68  原田○
手 崎71対68  原田○


以後、5度目の防衛戦でまさかの新鋭のライオネル・ローズに判定負けするのだが…続きは次回に。


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2017年07月22日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想6)

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ファイティング原田が先日テレビ朝日の「ザ・インタビュー」に出演してインタビューア嶌さんに応じている。






フライ級三羽烏のライバルからまず抜け出し、フライ級でパスカル・ペレスにKO勝ちして新世界チャンピオンになった当時のポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦したのはわず19歳だった。

「勉強しろとか、なんとか口うるさく言わないオヤジだったけど、これだけは、いつも言ってたよ。男の生き方というのは、勉強して学者になるか、金を掴むか、栄光を掴むかだって…」(『チビのオレにもやれる』入江和夫)の名文が蘇るマー坊の人生はまさにテレビ中継創世記から伝説をつくりつつあった。

米屋のアルバイトしながら植木職人の父の教えに習い自分の得意の分野を見つけてその世界の一番になり栄光を掴む、という言葉に忠実に従いたまたま世田谷深沢にあった笹崎ジムの前を通り自分は要領もよく喧嘩も小さい体ながら強く、これだとボクシングジムに入った。なんのためらいも疑いもなかったという。米屋では当時一俵60キロあるという米を担ぐことで足腰を鍛えた。加えて本格的なロードワークは20キロだったという。その基礎体力が三羽烏の青木勝利や海老原博幸の一発のパンチ力はなかったものの、無尽蔵なスタミナのg源泉になり原動力のラッシュする回転の止まらない戦法を生み出した。

実際、そのザ・インタビューで昔の映像を振り返るとキングピッチを11RKOしたときのラッシュぶりは凄まじいの一語に尽きる。88発。

ポーン・キングピッチの試合運びの巧さは関光徳のサウスポーの強打を封じ込み、野口恭を巧打で簡単に退けていた。

突然の矢尾板貞雄の引退があり、ファイティング原田は19歳で挑戦の機会を得たのだ。わずかボクシングを初めて3年余り(ジムの入門費を貯めて入会して四年半後)。新人王戦で海老原博幸や青木勝利に得意のラッシュ戦法で勝ち若手フライ級のホープになった、若いファイティング原田に幸運がきた。

11Rのダウンシーンは逃げても逃げても打ち込まれるパンチのラッシュに耐えきれられなくなったポーン・キングピッチがコーナロープに座り込み10カウントを数えられた姿が再現されていた。1962年10月10日まだ我が家にテレビがなかった時代、あちきは針中野温泉(当時のスーパー銭湯)で蔵前国技館で行われたその試合を多くの大人にまじって見た。

当時は実践で強くなるマッチメーキングが組まれていたので原田はこの試合で28試合27勝11KO1敗の成績になった。

リーターン・マッチはタイで行われた。三か月後の翌年の1月12日タイ・ナショナルスタジアムで行われ、原田は八回にダウンを奪うなどまた、ポーン・キングピッチがダウンをしたと思ってもスリップにされるなどで終盤にキングピッチの反撃を許しストリップデビジョンの1対2で初防衛に失敗してしまった。

原田はそのときのことをインタビューで「明らかなホームタウンデビジョンですよ。倒してもスリップにすちゃうんですから…」と語り、実は太りやすい体質で減量が過酷だった話を披露した。

「あしたのジョーの力石の減量シーンあるでしょう、あれ、ぼくのことですよ。あの力石は洗面所やトイレの戦出ないように針金で動かなくなってますけど、ぼくは元栓閉じられてました」

と語り15キロの減量はなんとかできたけど20キロとなるととても無理ですから、とバンタム級に移し、まさに世界のバンタム級チャンピオンになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0(ウィキペディア)

(つづく)この記事を明日の田口や京口に捧げる。現在の軽量級は競技人口が少なくしかも4団体もありチャンスがアリすぎる。しかしそれでもローマン・ゴンザレスや井上尚弥や井岡一翔や山中慎介や三階級制覇の金字塔の長谷川穂積や内山高志や三浦隆司になるチャンスがごろごろしている。田中恒成に拳四郎に小國以載に久保隼、加えてフライ級比嘉大吾。

格闘技の行き先は最後はファイティング原田氏が好む「根性」になるかもしれないが、その前提としての練習や鍛錬、食事管理にボクシング技術の向上は大前提にある。つまり科学的トレーニングとメンタルトレーニングを裏付ける基礎体力、ファイテング原田氏がこじ開けた世界がもっと大きく開かれつつあるボクシング界の発展に興味を持ちつつ。

そして、戦後民主主義のために朝鮮戦争があり、朝鮮半島は民族分断があり、日本のなかの外国の沖縄返還協定の闇があったことを比嘉大吾(白井具志堅ジム)Champは忘れないでもらいたい。


以下の文章は戦後民主主義の様変わりをあちきの尊敬する鈴木武樹の記述から語る準備中の書き出しです。


鈴木武樹教授は戦後の新生中学校の第一期生ということで、戦後の国民学校の先生が体制が変わるとみごとに「鬼畜米英」と教えていた先生が

《「新制中学が九月一日に始まると「アメリカ軍は正義の軍隊で、日本の軍隊こそ鬼畜生だったのだ」といったようなことを言いはじめているではありませんか。で、わたしたちは彼らのそういったところを見てしまっていましたから、国民学校から持ちあがりできた教師たちには、もう八月十五日以前には先生方はなにを教えていましたかと言ってやれば、それだけでもう彼らはぐうの音も出ませんでした。また、きのうまで闇屋をやっていたような教師たちは、たいした定見は持ちあわせていませんでしたから、わたしたち子供たちに押されっぱなしでした。》


というわけで新たしい教師は若くて教育熱心で友だちつきあいのようになったそうです。しかも上級生の二、三年生は国民学校の高等科からきた子供たちばかりでしたから旧制中学に行った残りの生徒たちだったので早い話勉強ができなかった。新生中学生の方ができた。

《以上が発足当時の新生中学のだいたいの人的構成です。したがってわたしたちは、学校を出たての教師以外はものともしませんでした。そして中学は、教わる場というよりむしろ遊ぶ場であり、教師や上級生と戦う場であったわけです。》



鈴木武樹少年はそこで中学一年にして子供新聞を発行して教師批判を書いたといいます。あちきの場合は貯めていたエネルギーをあの理不尽な教師たちに《ラ・マンチャの男 ドン・キホーテ》がやどり教師たちをクソ味噌に批判しパロディにするというシナリオを書いたら、それがまとまりのない工業高校の留年生数人いるクラスがまとまり運動会の仮装行列で「あの真面目で目立たない五輪おたくで原動機クラブ部長なのにクルマの運転も下手で整備も下手で絵心はまあまあぐらいの130人ぐらいの人数で勉強しなくても50番ぐらいが最低で少し勉強したら10番台になるという勉強(実技実習が鋳物などのにおいや旋盤の鉄削り匂い嗅ぐと頭がいたくなり持病の喉のリンパがやられているので咳ごむという)ぎらいで、どちらかというと馬鹿正直で真面目とおもわれていた男が大胆なシナリオを書いたら受けた。
 図書部に入るとただで小説など読めるというのでそちらと掛け持ちしたりして、我がラ・マンチャの男 ドンキホーテは多くの先生たちを卒業まで敵にまわし、物理の先生には「このばかっつら!」と常にチョークの投げられ社会科の先生には実家の親がなくなり膨大な山の遺産の相続税が払えない(現物出資?)の事情ばかり聞かされ、ちろりんの風紀の先生からは「キミは反抗的で公序良俗批判を敵にまわす不良ではないが、その考え凶暴につき…あれは許さん」と監視され、軍国主義の教師は民主主義のかけらもなく、体罰でネチネチと何かにつけて、みんなの前でリンチした。ビンタ最初の一撃は当然だが、鉛筆の尖った先端を手の甲に当てキリのようにえぐる。それを何回も繰り返す。職人あがりの実習の先生からは「お前に教えるもんない」とあきれられ、数学の先生にして音楽編曲で年収・月収自慢を茶川一郎の名前だして月収百万円といいながら、オレの月収はいつも張り合える額だ。女自慢していて数学教えないでのど自慢の「イヨマンテ!」を歌い出す教師は愛車はグロリアスーパ6をのりつけて教師をしているのは仮の姿、浮気どころか女が数人いることがわかり家庭騒動勃発! アルバイトが忙しくなったなったのか自習が増えた日々、あちきは就職だけは自分の行きたいという道を模索して、小さなデザイン企画部門があるという、しもた屋の二階事務所と石版印刷の校正刷り室。下に輪転機が一台と工務の部屋と紙を吊るすスペースに小さな倉庫しかない印刷会社に就職したのだった。



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2017年06月20日

BOSSあかべえとあんちっち コンビ復活(その2)

BOSS「この国はなんか北朝鮮に似てきましたな。あんちっち昨夜はいきなり共謀罪強行採決のいいわけと加計学園グループ問題や森友学園問題隠しでときの総理大臣がわけわからんマスコミ(狗HK)抱き込んだ成果を発揮していきなりメディアジャックとしか思えない記者会見しましたわな」
上を下へのジレッタ 1 -
上を下へのジレッタ 1 -
あんんちっち「そうでんな。しかしうちらの関心は、《上を下へのジレッタ》の千秋楽があって、実はあの内容が手塚治虫さんの先鋭的な芸能界の内幕と政治家や企業家巻き込んでの一大野心プロデューサーの狂気で終焉する地球破壊になる妄想劇になるところなど、いまの日本いったらなんでっけど、北朝鮮にも通じるのんちゃいまんのん」
上を下へのジレッタ 2 -
上を下へのジレッタ 2 -

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BOSS「そうでんがな。つまり芸能界では周防とかよしもととかジャニーズとかホリプロとかナベプロとか太田プロとおかまず、その大手に逆らうと仕事がなかなかもらえないという話ありますわな」
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あんちっち「うちの知り合いでANさんの熱烈ファンがいらっしゃるんですけどね。ANさんはなんとわずか2年前には、周防関連の事務所所属が奴隷みたいな契約だから独立して個人事務所持ちたいという話を持ち出したら、なんと週刊誌でリークされて次のLIVEコンサートの目処がたたないということになりましたわな? あれ結局どうなりましたん。BOSSあかべえはん」
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BOSS「あれでっか。つまりライジングプロに楯突いたということと絵を描いた大物黒幕のプロデューサーがいたとか言われてえらい目にあむろちゃん、あっいうてもうた、あってましたんやけどな、あちきとあむろっちは悪いなかちゃいまっからな、なりゆきを辛抱強く見守ってましてん。落語会行ったりサッカー観戦はもちろん、ときには燐光群舞台観劇したりあむろっちと仲良く偶然に『麦ふみクーツェ』一緒になって観劇したりとかしながら、あむろっちの行く末心配してましてんけど、あちきなりの戦略組み立てて戦術としての事実をその四月には実行しましたんや」




あんちっち「それってあれでっか。くまモン美子さんモデルへの求愛小説とか安佐木夢見史モデルのBOSSあかべえはんの得意な数珠つなぎ小説とかいうのんちゃいまんのか?」

BOSS「なんであんちっちが知ってまんねん。あちきはご当人さま以外には発表してまへんで。売れる小説でないならそれはそれでしゃない。しかしそんなことでも何が動くから不思議な世の中というか世界というか、まさにあちきの統合失調症の病気が生きることになるんやから、世の中《一寸先は闇》肝に命じておかないといけまへん」




あんちっち「これえげつない見出しだすけど、なんことはない新しい公演の日程が決まり個人事務所も決まり、マネジメントはエイベックスデビジョン・ポイントがやり個人レーベルのデビジョン・ポイントそのまま維持され万々歳やおまへんのか」

BOSS「そうでんねん。ところがこの見出しえげつないやろ。金欠病とか、ちょっと前には四面楚歌とか。あちきはそれが腹たったから安室奈美恵のキャンペーンのファッション雑誌大人買いして本屋であるもの全部買いました。ああいう困ったときに微力ながら何かするのがファンとしての心意気ちゃいまんのん。」




あんちっち「なんか見出しは悪意に満ちているけど内容はBOSSの大人買いファッション誌買い占めになるほど反響があったということでんな、これ読むと」

BOSS「そうですな。ものごとは成り行き任せにせなアカンときもありまっさかいな」
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6月10日に発売した2年ぶりのアルバム「_genic」をひっさげてのもので、最終的な観客動員数は40万人となる予定だ。初日のライブを観た音楽ライターが言う。

「前事務所、ライジングプロとの専属契約を終了。独立してエイベックスのレーベル、ディメンション・ポイントに移籍しました。独立を巡ってすったもんだが報道された昨夏には、守銭奴、奴隷契約といった生々しい言葉が飛び交い、イメージダウンは免れなかった。今は全てが解決して個人事務所も立ち上げ、新しくスタートを切ったところです。コンサートでの安室は、表情も晴れやか。自慢の踊りはキレッキレに仕上がり、衣装から舞台まで金色で統一。1万8000人の観客に金のポンポンを持たせるなどして、ステージは大いに盛り上がりました。アラフォーの安室はまったく年齢を感じさせず、2時間半、とにかく歌って踊りまくり。どんだけスタミナがあるんだ、と底力に驚かされました」






あんちっち「でBOSSは行きはったんやろ。大阪公演はいつもの大阪城ホールだすやろ!」

BOSS「なんで知ってまんのん。いや、そのころいは家主さんが毎日朝から晩まで怒鳴りまくって《出て行け!》の雨、あられでしたからその準備で金の工面せんならんはアパート探しはしないといけないのに、既に_genicのALBUM買ってメロディーラインだけは頭に入れるということはやってまんねん。しかし英語の歌詞など何と言っているのか全然覚えられまへんねんけどね。一応スマホに入れて聴くことで参戦への気持ちは忘れないようにってことですわな」

あんちっち「ところで話もどしますとでんな、総理のメディアジャック記者会見の翌日にはなんとお東京都の知事がさんざん東京オリンピックの会場問題も引きずり回して結局は何も変わらず土建利権のいうがままの当初の予算がふくらんだいうことでんな」

BOSS「そうだんねん。舛添要一前知事のせこい私的流用金使いどころちゃいまんねんて、その実態がまず、豊洲にありました。なんと自公の
豊洲市場受注ゼネコン 自民党に1億1300万円献金豊洲市場受注ゼネコン 公明新聞に8700万円(推定)の広告 》っていうのがでかでかと暴露されてまんねん」

あんちっち「これって要するに、盛土の問題も汚染水対策の問題も何も解決していないのに移転時期をここまで先送りして築地市場の業者も店じまいしたという話たくさん聞いてまっけど、大阪も阿倍野西地区開発の2000億円の赤字問題抱えており財政の逼迫は尋常じゃおまへんけど、えらいことでんな」

BOSS「あんちっちはBSの番組ご覧かどうか知りまへんけどね、BS朝日やBS日テレでは築地市場の職人さんや凄腕の仲買さんの目利きの実態やらマグロの捌き方熟練の伝授の話や同時に築地市場の豊洲移転が決まったために築地市場での新店舗と移転後の豊洲での新店舗の二重経営のために、豊洲移転の延長は業者の投資資金の回収に目処が立たないから、補償問題が起きてますわな?」

あんちっち「そうですわな。わたしの代でたたみます。と割り切っている方もおあられますが、そう簡単に行かない事情がお得意さんにもあるってことですわね、それぞれの専門分野の扱いがあり、そこでは自然と築地市場全体の利益のために品物を巧みに融通しあいするとか、なんというか信用商売の仲買人のひとの良さなんか見ていると、江戸っ子っていいな、とおもいまっけどね」

BOSS「そうでんがな。なんでも決済は電子マネーとかになってゆくのはしょうおまへんけども、人間の目利きがAIロボットにできるようにいずれなるにしろ、ペッパーがその水準になるにはまだまだ時間かかるんとちゃいまっか?」

あんちっち「そういえばBS朝日の特番で今度都議会選挙に立候補しやはった森山さんでしたかな、建築アナリストさんが常に何が豊洲の設計上の問題なのかを分析しておられますね。重量がどうとか。トラックの荷降ろしの横幅が足りないとか…」

森山 高至(もりやま たかし、1965年[1][2]12月15日[3][4] - )は、日本の一級建築士、1級建築施工管理技士。メディアでは建築エコノミスト[5]、建築アナリスト[6]との肩書で活動している。森山 崇という名義もある[7][8][注 1]。

土木・建築工事の請負、不動産、建築物の設計・監理を主な事業[12]とする株式会社CRAの取締役でもある(ウィキペディア)





BOSS「そうでんがな。盛土がないのは盛土で東京ガスの跡地のベンゼンなどの有害物質を封じ込めてしかも地下水があればそれは地中のポンプで汲み上げ汚染処理装置で浄化して捨てるという手順だったのが、汚染水が盛土ないから空間にあるはその中には配管装置が迷路のように走っているわしかも高さが高いとかで、ちょっと修理のための地下への通路完備はあるようでっけど、簡単には修理もできない空間になってますわな」

あんちっち「しかも道路をはさんで施設分散していますから、パレット移動のヘアピンカーブが事故の危険性が指摘されてましたわね」

BOSS「そんな基本的な大切なことなんで仲買人さんらの意見聞かずに設計されましたんかわけわかりまへんわな。実際に映像見ましたけどあのヘアピンカーブで移動するのはスター・ウォーズの映画ならシャレになりまっけど朝の忙しいときに集中しますやろ。時間差通交とかしまんのかな? 気になりましたな。お東京都さんのこといえる関西人でおまっけどね」

(つづく)

あちきはPCは安室奈美恵個人事務所設営を記念して、すべて_genicのALBUMの写真の壁紙を使用しています。
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2017年06月19日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想5)

昨日、ボクシングライトヘビー級の3団体統一王者になったアンドレ・ウォードとセルゲイ・コバロフの再戦がWOWOWオンデマンドとダ・ゾーンでネット生中継があった。





結果は中盤から接近戦でボディ攻撃でウォードがコバロフのスタミナを奪って、初対戦でのスプリットデビジョンの研究からコバロフの距離を殺し思い切って接近戦にもっていった戦略は評価できるものではあったが、前半からローブーが数回あり、その行為に対してレフリーのトニーは普通なら減点になり、十分な休養時間が与えられるのが通例の展開をわざとか、たんに見えなかったのかは定かでないが有名なレフリーはこのシーンをさらっと流してファイトを求めた。このレフリングはいただけない。WOWOWの中継解説者の浜田氏や飯田の解説もわからないではないが、あそこまで露骨なローブローのあとの打ち合いでのウォードの右フックがコバレフの決定的なダメージになったのは事実だが、ロープ際のウォードのローブローの連発は明らかに反則打だ。長年ボクシングを観てきたものとして、この不愉快な結末にアンドレ・ウォードの巧さは認めるがスポーツとしてのボクシングにアメリカ対ロシアの構図が以外と人気カードになりえない現実を観た、という感じだった。実際、どこ観ても事前報道は興行的にはマニー・パッキャオがフロイド・メイウェザーと試合したときのような盛り上がりがなく、ウォードの評価はあくまでも一部のボクシング通と玄人に評価される存在であり、知名度はなく今回の再戦のペーパービューの不人気にはHBOもがっかりの興行だった。


つい最近のヘビー級のビックマッチの





それはともかくあちきは8月15日のワールドプレミアムボクシングのチケットをぴあで手にした。真夏のお盆はガンバ大阪対ジュビロ磐田の(因縁のりマッチ大阪万博記念)と市立吹田サッカー場と京都の島津アリーナの山中慎介のスリル満点なKO勝ちによる13度防衛というあの沖縄石垣が産んだ当時のジュニアフライ級(具志堅用高のためにできたといわれた階級)の13度防衛に並ぶことを祈念して、ごたくは忘れて生観戦したい。トップコンデンダーでしかも無敗でKOパンチもあるサウスポーとという若手ホープの指名挑戦者のネリー相手ということで、期待は高まるばかりだ。序盤に若手ネリーのラッシュなどに巻き込まれない注意は必要だが、ペースを握れば右の差し合いも進歩している山中慎介Champの「神の左」は炸裂する可能性が高いだけに、楽しみな京都島津アリーナではある。あそこでの試合で3ラウンドに致命的と思われる2度目のダウンで(10度目防衛戦)リボリオ・ソリス戦で生観戦地獄観ただけに、今回は母校《京都南高校・京都廣学館高等学校(きょうとこうがっかんこうとうがっこう )》ゆかりの地での2回目の凱旋試合だけに、ファンの期待がふくらむというわけだ。

あちきが単にボクシングファンお宅問いわれる存在であるのはしゃあないけれどもね。



なんと井上尚弥の西海岸進出防衛戦が決定というニュースが飛び込んできた。

今年3月以来の再戦となるWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ、王者シーサケット・ソールンビサイ(30=タイ、43勝39KO4敗)―前王者ローマン・ゴンサレス(30=ニカラグア、帝拳、46勝38KO1敗)が行われる。シーサケット―ゴンサレスがメインイベントで、井上尚―ニエベスはセミファイナルとして行われる。


というのだ。しかも、

同じ興業ではWBC世界スーパーフライ級挑戦者決定戦として、元王者で現同級2位のカルロス・クアドラス(28=メキシコ、帝拳、36勝27KO1敗1分け)―同級3位ファン・フランシスコ・エストラーダ(27=メキシコ、35勝25KO2敗)も組まれており、勝者はシーサケット―ゴンサレスの勝者との対戦が義務づけられる。


 
スーパーフライ級の“世界トップ5”、井上尚、シーサケット、ゴンサレス、クアドラス、エストラーダが集結する注目のトリプルヘッダー興業は、米ケーブルテレビ最大手HBOが中継する。


いやスーパーフライ級がローマン・ゴンザレスと井上尚弥に加えて元WBAのスーパーフライ級チャンピオンのフランシスコ・エストラーダーも加わって、楽しみは軽量級とは思えないカードが実現してHBOもショウタイムに遅れをとったヘビー級ウエンブリーでの9万人興行の生中継権のがした巻き返しで、東洋のマーケットにも本格参戦、いや帝拳のプロモートは大胆不敵なことになってきたもんだ。

既に、7月16日にはミゲール・ベルチェルト対三浦隆司や8月27日にはミゲール・コット対亀海喜寛のスーパーウエルター級王座決定戦などもあり、さらにいえばあのマニー・パッキャオが初めてオーストラリアの5万人規模の会場でジェフ・ホーンと7月2日に対戦するウエルター級防衛戦もある。真夏のボクシング熱がさらに高くなる。いや、ボクシング状況には目が離せない。


という長み前ふりがあって、関光徳以後のフライ級三羽烏で売り出したファイティング原田に海老原博幸に青木勝利について、見てみよう。いや、もうこのころファイティング原田の出現はなにしろ、白井義男以来のフライ級王座奪回の悲願の日本に出現したまさに時代も申し子たちのボクサーたちの競う季節になろうとしていた。

パスカル・ペレスはフィリピンの当時の英雄ポーン・キングピッチに破れタイトルを失いそこに常に立ちはだかったのがキングピッチだった。最初に日本人選手で挑戦したのはフライ級時代の関光徳だった。サウスポーの関光徳は長身で強打ということで期待されたが既に減量に苦しみ初めての世界挑戦試合は精彩がなかった。関光徳が19歳で挑戦したとき、1961年6月27日あちきは針中野温泉の当時のスーパー銭湯で見たのだが、関光徳は26歳の2度目の防衛戦のChampに翻弄されていた。左の強打は不発であしらわれ接近してのボディブローでスタミナを奪われ蔵前国技館の1万人の熱気は沈黙とため息、当然温泉ロービーのテレビ画面を囲む大人たちも沈黙やため息があり、プロレス中継に熱中した歓声はない。ホームタウンで手嶋氏が確認したら145対144で勝ちとしていたようだが、誰も15回戦の終盤は完敗を感じた内容だった。

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2017年06月16日

BOSSあかべえとあんちっち コンビ復活(その1)




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落語 皇国史観のねじ曲げ共謀罪


あんちっち いやほんま、月亭可朝師匠もびっくりの展開だすわ。なにゃねんと猫もびっくりの中間報告に参議院の法務委員会すっとばしの本会議強行採決の共謀法成立だっせ!

BOSS ほんまでんな。世の中おかしいっていうのは2012年の東京都知事選挙と衆議院解散総選挙の同日投票でおかしさは頂点になりましたけど、ここまで維新もからんで悲惨な大政翼賛会へ一直線とはよくもまあ、やってくれますわな。これで怒らない連中は自分だけは共謀罪に問われないという自信あるんとちちゃうかとおもいまっけど…ほんま頓馬天狗もびっくりのはずかしい姿を世界にさらして、安倍昭恵夫人はもちろん安倍首相それに追随する内閣の連中は一体国会でなにを丁寧に説明したというのか、ほんまあきれてしまいますわな。

実際落語のまくらにしたらその滑稽さわかりまっさかいな。安倍の答弁文字起こしした方のブログ読んだら、この事情がよくわかりますわな。つまり加計学園グループ問題の核心をつかれだして安倍はうろたえた。そして自分の森友問題のときの「かかわっていたら引退!」の言の葉が浮上して、やばい、ということになり意味不明の答弁で国会の委員会での答弁をやりすごすことになってましたわな。

あんちっち あれ、なにいっているかよくわかりまへんけど、ああいうのは議事録にも残ってまんねんやろ。

BOSS そうでんがな。はすかしいで。一国の首相の答弁がまともな文章にできないっていうのは世界にうちの国の首相はうんぬんを(云々)をでんでんとしか読めませんとか…はじかいているのに全然こりてまへんからな。


BOSS これがもともと第一次安倍政権が企んでいた今回の共謀罪法案の前身ですがな。あちきの彼女の熊紋美子モデルのよっちゃんがいってました。わては落語ファンでおまっけど、この法案ってまるで寿限無法案でんな、とかいってました。




あんちっち こんなに長いのは昔の巻物文化の継承なの。しかし長すぎて国会議員もすぐにおぼえきれまへん。

BOSS そうでんねん。筆記ちゃんの復帰ALBUMのFantomeは素晴らしい日本語が散りばめられた歌詞と楽曲でおました。発売と同時に予約もおおかったせいかAmazonの売れ行きもタワーレコードもバンザイのミリオンヒット。評価見てもオール☆いつつの素晴らしい格調のたかい文章がならびその質の高さは倫敦塔なんかとっくに追い越し、いまやあべのハルカスのあべのベアも驚く高さに到達したっていうもっぱらの売れ行きと評判なのに、あの安倍首相の答弁はなんでんのん。







(これはあくまでも数詞 一の創作でありんす。安倍昭恵の恵をあえて江のままにしているのは東京オリンピックと豊洲移転景気? にわく東京への皮肉?)







(以下引用はネットゲリラでご活躍の川本耕次さんのブログより)

【悲報】安倍さんガイジだった...?国会答弁で質問に一切答えない池沼答弁が文字起こしされてしまう 、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。

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宮崎
「責任とるという発言を、3月13日、参議院予算委員会でされていますけれども、総理、責任ってどういう意味ですか?もし、働きかけが証明されたら、どんな責任とるんですか。」

安倍「今、また認識の間違いをされますから、説明しますが、構造改革特区と国家戦略特区、この違いをよく理解されていないんだと思います。」

宮崎「それはあなたですよ」

安倍「まずどちらにせよ、サブスタンスを議論してるんですから、まず皆さんの時は、構造改革特区というのは、上がってきたら、めくら判ですか?違いますよね。上がってきたら、め、めくばらんですか?これ、あがって、あがって、あがってきた、あがってきたものをですね、あがってきたものを精査するわけですよね、で、あがって、あがってきたものについては、先ほど申し上げましたように、自民党政権においては、熟度等も含め、あるいはですね、獣医師会等との関係においても、対応不可、対応不可であったわけであります。
国家戦略特区、国家戦略特区においてはですね、まさに、今治市ということで、それも上がって来るんですよ。
で、大きな中で、国家戦略的にですね、国家戦略的に穴をあけていくということで、決めて行きます。
ですから、その中で、我々も、医学部を決めました。医学部を決める、新たに新設をしました。
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↑あがって
あがって
あがってきた
あがってきたものをですね

あがって
あがってきたものについては
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でも医学部を決めるに際して、私が成田市とか、言ってるわけではないんですよ。たとえば、私が、養父市とか、言ってるわけではないんですよ。
もし、そう思っておられるんだったら、全くこれ、考え方、変えられて、というか、ですね、全く理解が、全く理解が、間違ってると、言わざるを得ないんですよ。
で、最終的にはですね、最終的には、何でも、どんな仕組みであれ、最終的に決めるのは、内閣総理大臣ですよ。
そして、どんな、色んな会議、たとえば、経済再生諮問会議だって、私が議長です。様々な議長があります。
でも私が、そこでですね、勝手に色々なことを決められるんだったら、そもそも諮問会議の意味がないじゃないですか(与党:そうだ!)。
私は根本的に、宮崎さんは間違っている、こう思いますよ。で、いずれにせよですね、いずれにせよ(差し出されたメモを見る)。
の、今の、あの、めくばら、えーめくら判についてはですね、ちょ、ついては、言葉として、問題がありましたので、訂正をさせて頂きますが、しかしですね、いわば、これはですね、あの、基本的にはですね、上がってきて、上がってきてですね、先ほど申し上げましたように国家戦略特区諮問会議でですね、民間議員がですね、民間議員が、民間議員が、真摯に議論をするんですよ。
ですから、皆さんのこういう議論に対して、民間議員の皆さんは、怒ってますよ。その意味に於いてですね、どんな決定においてもですね、どんな決定においても、その決定に、問題があるんであれば、責任をとるというのは、当然のことであろうと。(なぜか席に帰ろうとする)」

玄葉委員長「総理、質問に答えてください。責任とは何か。」

安倍「いや、責任をと、責任があるから、責任を、私の、私の責任をとると、え、え、これ、中身についてはですね、中身については、あの、敢えて申し上げる必要はないと思います。」
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↑基本的にはですね
上がってきて
上がってきてですね

国家戦略特区諮問会議でですね
民間議員がですね
民間議員が
民間議員が
真摯に議論をするんですよ


このままだと安倍内閣が崩れるね 
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わたしが森とっぅも学園のホームページに対してわたしが隠ぺいしようがないじゃないですか。
そういうイメージ操作はねえ、やめるべきですよ?
そういうことをしてるからですね、国民の信頼をうることが、みなさんはできないんです。

これはっきりと申し上げてね、はっきりと申し上げて、いいですか、で、そういうですねえ、そういう、すいませんちょっと野次はやめていただけますか? たいせつなところなんですから。
こういうですね、こういうたいせつな議論をしているときに、正確な議論をするべきなんですよ。
で、そのなかでですね、そのなかで、この、お、えー、先方がですね、家内の、あの、おー、ぅ、えー、名誉校長という、ホームページのページをですね、隠ぺいしたという言い方はですね、これは取り消して、まず取り消して、え、っう、いっい、ぃ隠ぺいというものをですね
まずわたしに質問する前に、じゃあ取り消してください。
何度も何度も断ったというのはですね、安倍晋三小学校について申し上げたわけであります。
それと、隠ぺいというのはですね、これは失礼ですよ!

で、あなたたちはすぐにそうやってレッテル貼りをしようとしている。
この問題についてもですね、まるで、まるでわたしが関与しているがごとくの、ずーっとそういうですね、えーイメージ操作をこの予算委員会のテレビつきしつ(ママ)の時間を使ってですね、えんえんと繰り返していますが、みなさんそれが得意だし、それしかないのかもしれない。




それしか、ま、ないのかもしれませんが、隠ぺいというのはですね、隠ぺいというのはー、隠ぺいというのはじゃあ、わたくしが隠ぺいしたんですか?



BOSS まず、そもそもの長いやつ。《平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連》ここまでで85文字もありまっしゃろ。あの日の朝日新聞見たら欄外に小さな字で活字ならべてまんねんで。最初冗談やなしになにかの間違いにきづいて急遽紙面が間に合わなかったのかとおもいましたぜ。ところがちがいまねん。

あんちっち こんなながたったらしいのが縮めると『テロ特措法』の5文字に化けるんですか。化け猫でもそこまでしまへんやろ。

BOSS それがやりましてん。《する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法の一部を改正する法律》この37文字がつづいた122文字の法案が『テロ特措法』の5文字に略した法案を通そうとしましてん。

あんちっち 法案の特措法の原案つくる官僚もたいへんな労力ですな。


BOSS そうでんがな。なんでも2001年当時の内閣官房側から題名を詳しく書きたいという要請があって法制局の秋山さんって方が、だったら長くしたらってことで、9月25日の第1案から10月2日の第5次の修正最終案まで経てどんどん具体的な言葉をつけ足した結果122文字の『テロ特措法』ができたんですな。

あんちっち で、その法案できて自衛隊はどんなことしましてん。

BOSS 最初はインド洋自衛隊の補給艦と護衛艦を派遣しましてですな、米軍などの艦艇に燃料や水の補給しましてん。2年間の時限立法ゆうてでんな。そこでおわりかな? とおもったら自動延長でなんと2007年の11月1日にいよいよ期限切れ。さてどうするってことになってですな…議論があったってことですわな。

あんちっち それが自衛隊海外派遣に弾みがつき、いわゆる安全保障関連法案という名の《戦争法案》につながりましたんかいな?

BOSS そうでんがな。せっかくその後小沢一郎代表に立てて政権交代の風が吹いたというのに、小沢一郎だけはだめだと米国のジャパンハンドラーの圧力もあり、いわゆるまずは西松問題から陸山会問題がでっちあげられて、小沢一郎の政治資金規正法期連れ問題などでマスコミこぞっての反小沢キャンペーンが始まりましたわな。連日小沢一郎がどんな国家的犯罪をおこしてんという騒ぎが朝から文字通り晩まで報道されました。いきなり秘書の逮捕や関連議員の逮捕などいわゆる検察のでっちあげに、小沢一郎はやむなく代表を降りて鳩山由紀夫代表を立て自分は幹事長として選挙戦は裏方に徹して大勝利したのが2009年夏の衆議院総選挙でした。

あんちっち そうだしたな。わてはどっちかいうと政権交代反対の気持ちあったから、そういえばBOSSのいやがらせっていうか、ま、選挙のにぎやかしに放牧のようなことされてまっから、お気楽ではありました。けどあのころ相模原の麻溝台の空気は異常な感じで、住民が張り切ってましたんちゃうのん。

BOSS そうだした。とにかく神奈川16区Gが自民三代の一族に風穴あけるっていうて、立候補したもんやから、今度こそ天の風にのって自転車かっとばして厚木の地元から民主党の風ふかすというもんやから、事務所開きから大変なもりあがりでしたな。KNがいきなり水色のワイシャツまくりあげて事務所にきてました。

あんちっち そうだっか。あてのともだちはバスのって事務所のようすちら見したそうだっけど実態はようわかりまへん。

BOSS 麻溝台の公園での第一声には地元の県会議員や相模原の市会議員や市長までかけつけて、もりあがったところで鳩山由紀夫代表がクルマで到着したもんやから、マスコミも気になってか、気がつけばようさんきてましたわ。とくにテレ朝のお天気ねいさんまでこっそり来ていたのは4月からサブキャスターに抜擢されたからでしょうね。

あんちっち BOSSはそんなぎょうさんおるマスコミのなかからそんなことわかりまんのん。

BOSS それはここではいえないから小説でかいてまんねんけどね、後にそうしたらあのスケベじじいとあちこちからいわれましてん。おうじょしまっせ。文学的に迫る方法論のひとつとしてああいう恋文小説もあってもいいやないかと、おもったんでっけど…その内容がなぜか漏れましてん。

あんちっち わかった。うちのともだちそのころBOSSの監視みたいなことやっていたんとちゃいます。いわゆるハニトラのようなもの。

BOSS そうでんがな。はなしはしょっていうと、小沢一郎は自分が苦労してまとめた民主党を裏切られて、結果的党首選挙でわずかに負けて追い出されて「国民の生活が第一」を結党したまではよかったんでっかどね。わても腹心のM議員の出版パーティに2万円張り込んで参加したりしたもんですわ。

あんちっち あのN党首の首相が消費税10%に上げるとか大間の原子力発電工事再開とか関電大飯の再稼働とか、国会前の反原発運動の民意をことごとく無視してしかも民主党を分断する政策にしたもんやから、えらい騒ぎおこりましたな。


BOSS そうでんがな。なんか話どんどんそれてまっけど…気がつけば数の論理で国会運営の手続き無視の《共謀罪法案》成立になってまんねんから、ダークサイドっていうSTARS WARSに向かうのは早い早い。消費税は8%になるし《平和安全法制》という名の《戦争法案》で国連安保理平和維持軍団の要請で南スーダンの紛争地帯に自衛隊が派遣されたのは記憶にあたらしいところですわな。

あんちっち そうでしたな。白兵戦にまきこまれるかもしれないとか、無政府状態の内戦ですから、とか少しニュースみてましたけど、自衛隊員にも家族おられるわけで、この状態であんなとこ行くのはかわいそうっておもってました。

BOSS その国連にいちゃもんつけて世界の笑いモンになる危険性あるのに、東京オリンピックに必要という理由で《テロ等準備罪という共謀罪法案》つまり戦前の治安維持法とおんなじ権力を公安警察や内閣調査局が持ち拡大解釈されると、小林多喜二さんのように虐殺されたり、『母べえ』の映画の主人公の父べえが勉強で本を読んでいるだけで獄中で亡くなるという時代がくるってことですわな。国防婦人会とか復活しまっせ。いまはSNSでビッグデータ取られてまっからね。

あんちっち 加計学園グループ問題で次官やめたMさんが告発の動きしたらたちまち私生活の動きからリーク報道がされましたわな。いわゆる印象操作報道。それに対して週刊誌が独自取材で事実報道、文科省の内部から文書がでだしたら、文科省副大臣が脅す処分するという恐ろしい世界をM議員が正してました。


BOSS そうですわ。あんちっちは芸能情報も好きなので週刊誌好きでっしゃろ。美容院でも読めますわな。美容院は古いか? ヘアーサロンでっか? 

あんちっち しかしこれじゃおもろいこともなんともおまへんのんちゃう。

BOSS そうでんな。日本国の歴史を踏まえて琉球弧の沖縄普天間基地の辺野古への移転問題や高江のヘリパッド建設のゲリラ訓練地の整備に宮古や石垣の自衛隊基地による先島要塞化計画など問題と金がかかる防衛費は従来からのいわゆる米軍へのおもいやり予算の恒久化狙いになり、露骨に軍事産業が儲かる構図になってきてますわな。オスプレイはもう17基も飛んでますやろ、確か。墜落事故あっても想定内。しかし米軍はアメリカ本土ではオスプレイは飛ばせません。しかし日本本土でも飛んでますわな。そもそも厚木基地の自衛隊が米軍の指揮下にあるというのも事実らしいでっからね。未だにマッカーサーにはさからえない。



(つづく)
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2017年05月25日

王者になれなかったサウスポー関光徳(ボクシング追想4)

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いま、ボクシングのWBAという老舗団体が大きな岐路にたたされている。もともと、WBAの前身1920年にできたNBAつまり全米ボクシング協会だった。その機構が1962年にWBAになり、世界チャンピオンの公認機構として各国のコミュションが参加してできた。つまり、白井義男がダト・マリノに勝ち世界チャンピオンになった時代はJBCが発足して田辺宗英が初代コミッショナーとして立会い実現した。



その後、本来はWBAの内部機構組織世界ボクシング評議会WBCが発足し、五大陸(北米、中南米、東洋、欧州、英国)の代表が問題を取り上げられるために作られた機構が、WBAの米国中心運営に反旗を翻すことで、内部分裂しWBCが1968年に発足により、アジア軽量級王者の加速が始まり中南米、アジア人の小柄ボクサーの再評価時代が始まったというのが、あった。



関光徳の前に話を端折って渡辺二郎さんの事実上の二団体統一マッチはそういう過程で実現した稀有な例だったのだ。渡辺二郎はすでにWBAタイトルを6度防衛その中には2度めの防衛戦での元フライ級チャンプ大熊との対戦もある。つまり、6度も勝ち続けると挑戦者が現れない。大熊との試合は関西初のJrバンタム級(現スーパーフライ)のチャンプとしてステップアップの試合だった。後のセルソ・チャベス戦では大阪城ホール(当時は大阪国際文化スポーツホール)を13500人の観衆に埋めるまでに知名度も上がり長身のパナマ選手を15回TKOで破り6度めの防衛に成功していた。

そして機が熟したのがWBCのチャンプのパヤオ・プーンタラット(タイ)とどっちが強いねん、という話題だった。実現に際してWBAは渡辺二郎のタイトルを剥奪しており、渡辺二郎はそのリスク承知でWBC世界タイトルに挑戦という形で実現した。渡辺二郎はその試合で苦戦したものの終盤に決定的なダメージを与え僅差の判定勝ち。WBCのチャンピオンになり事実上の統一を果たしている。大阪城ホールは公式発表1万4000人を動員。その後の再戦では11回TKO勝ち。

大阪帝拳ボクシングジムのこの歴史は辰吉丈一郎へつながるというわけだ。


ところで関光徳のことだ。長身のフライ級から始まり、フェザー級まで階級を上げていることはファイティング原田と同じだが、残念ながら知名度は高かったが世界戦や前哨戦でどうしても勝ちきれなかった。

フライ級時代は1961年6月27日蔵前国技館で実現、ラジオでキングピッチ(フィリピン)との試合を聴いたものだが、19歳の関光徳は減量に苦しみ(当時は当日計量)にサウスポーの武器の右フックからの得意の左ストレートを打てなかった。6回に受けたボディ攻撃でダメージを負い完敗した。その後バンタム級に転向したら、ジョー・メデルのロープ際の魔術師のカウンターに沈むという具合でエデル・ジョフレへの挑戦権は後の二階級王者のあの伝説の視聴率男のファイティング原田の登場を待たなければならなかった。

そして迎えた次の世界挑戦はフェザー級だった。キューバのシュガー・ラモス戦だ。関光徳はフェザー級に上げたことで減量から解放され東洋太平洋フェザー級では敵なしの勢いで22歳になっていた。1964年3月蔵前国技館のことだ。関光徳は序盤の三回までは順調だった。しかし6回にダウンするとその後ラモスに攻められセコンドからタオル投入、あちきの家の床の間に鎮座したカラーテレビの垂れ幕を降ろさざるを得ない失望の敗戦だった。


それでも関光徳はチャンスを貰った。新和ジムの神話のような話で今度はビセンテ・サルジバルに挑戦の機会が海外でやってくるのだが、1965年という時代はファイティング原田がブラジルの黄金のバンタムと言われたエデル・ジョフレに勝ち二階級制覇というとんでもなボクサーの出現で沸き返り、東京オリンピックで桜井孝雄がバンタム級金メダル獲得してプロ転向で監督と絶交状態になる話題などもあり、ボクシング界はフライ級の宿敵はポーン・キングピッチからアルゼンチンのホラシオ・アカバロになり盛況一途、テレビのボクシング中継はプロレスに変わる勢いでファイティング原田のボクシング視聴率は天文学的なことになっていた。



1966年8月7日メキシコ・シティ・エル・トレオ闘牛場で行われたというサルジバル戦には記録を調べると45000人の観衆があったという。


あちきは、どこにいたかというと松下電工の合板工場にトヨエースで初めて単独の配達をやらせれていたので、その工場の片隅で昼休みにラジオ中継を聴いていたのだ。関光徳が4回に右ジャブから左アッパーでダウンを奪ったというときの興奮は頂点に達しなりふり構わずラジオのボリュウームを上げクーラーを効かせてクルマの運転席にこもった。

配達すべき荷物は運んだ。あとは合板見本の引取だったが、昼休みなので多少の時間のズレは問題ないというので、とにかく試合終了まで夢中になった。

しかし4回のチャンスにKOできなかった関光徳は7回にダウンして反撃を許し3対0の判定負けして帰国した。関光徳のメキシコ高地での善戦は評価されこそすれ、誰もが次の機会こそ世界チャンピオンになるという期待を抱かせた。

そして迎えた再戦は翌年の1月29日再びメキシコ・シティ・エル・ドレオ闘牛場。しかしこの闘いは7回TKO負けであっさり退こられた。

いや、不運ではあるがメキシコ・シティでの闘いで当時のビセンテ・サルジバルに気後れすることなく闘った関光徳は記憶に残るボクサーではあった。

1968年1月関光徳はロンドンにいた。サルジバルの引退によりWBCの王座決定戦がロイヤル・アルバート・ホールで行われた。関光徳のアウェーの試合はどこも会場が広くこのアルバート・ホールでも2万5000人になっている。相手はハワード・ウィストン、あちきはこの試合の映像を記憶の断片にはっきり残っている。関光徳は9回に目尻をカットしたのだ。そしてレフリーは実にあっさり試合を止めTKO負けになったのだった。関光徳26歳、73戦61勝35KO、11敗1分でこの試合後若くしてあっさり引退している。今の時代は三十半ばで現役続けるボクサーはざらにいるが健康管理と栄養管理やスポーツ医学の進歩により試合数も昔より少なくなりつつあるが、昔は一年に10試合ぐらいこなす例は日本でもざらにあった。


関 光徳(せき みつのり、1941年1月4日 - 2008年6月6日)は、日本の元プロボクサーおよびプロボクシングプロモーター経験者。東京都北区出身。元OBF東洋フェザー級王者。横浜光ボクシングジム初代会長。(ウィキペディア)
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2017年05月23日

ボクシングフェスの2Dayの不可思議と『Little Voice』銀河劇場



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ボクシングフェスの二日間を有明コロシアムに通った。有明コロシアムはでかい会場だ。しかも見やすい。さいたまスーパーアリーナのようにアリーナ席が広すぎると設営がアリーナのワンフロアでは醜い、いや見にくい。。しかしテニス殿堂ということで傾斜は全体を見通しができる構造になっており、しかもアリーナ席はもともとテニスの一面を覆うスペースなので傾斜をつけるにしろ設営のひな壇が簡単にセッティングできるということで、ボクシングファンには素晴らしい環境である。しかも中央には東西南北にLEDの美しい大型ビジョンが設営されている。これに入場の演出にテレビ映像だけではない、K1のような趣向もあれば、生観戦のファンにも最高のエンタメとしての環境が整う。

もちろん主役はボクシングでメインを張る5選手の世界タイトルマッチということになるが、玉石混合感は否めなかったことをシビアに見ている必要がある。

なぜそういうことをいうのかというと、20日には天王洲銀河劇場で『Little Voice』を鑑賞したからだ。あちきは大原櫻子のヒロインデビューの映画『カノジョは嘘を信じ過ぎた』を福岡のカナルシティで偶然見ていた。その日は安室奈美恵の『FEEL』の福岡マリンメッセに行くために福岡にいたのだ。

彼女を5000人だったかの応募者の中から抜擢した音楽プロデューサーの眼力に興味を持ったからだ。、その後がシンデレラ・ガールは必ずしも順調に育たないの世の倣い、そこはシビアな世界だ。

という前提でTwitterで大原櫻子が初の主演舞台を演じるということを知りあちきの嫌いな狗HKではあるが、番宣企画にこれも偶然大原櫻子や高橋和也はでていたので、なんとか小遣いの工面ができれば見たいと思ったのだった。

ボクシングという格闘技との落差はあるがジャンルに貴賎はない。

音楽や演劇音痴は自認しているから、おまえのようなド素人が何にもわからんのに、なにを言うかといわれれば、確かに専門用語に疎いあちきは一歩引き下がらざるを得ない。しかし、それが高尚になってしまった、猿楽や能・狂言や歌舞伎や文楽も元をただせば、大衆にまず支持されないとその広がりは自ずと限界があることは、権威にだまされたペテン師の盲目の作曲のゴーストライターがその話題牲がきっかけで本来の才能に目覚めたかどうかは知らないが、結構な公演やテレビ出演などで観客を集める力を得たことに現れるように、ひとびとは本来いい加減なのだ。

芸術家はときの権力者の庇護があって初めて多くのレジェンドを作り出したことは洋の東西を問わないことを考えれば、その説得力は大衆が支持しないとなかなか広がらない。宮沢賢治のほとんどの未発表の作品は高村光太郎が奇跡的な判断で空襲から守ったカバンがからであることは、たびたびふれられることで、劇団30(さんじゅうまる)主催者の渡辺えりが『天使猫』という素晴らしい演劇にして話題になってことで、改めて数年前に知らされたものだ。

そこで、話をもどして大原櫻子主演の『Little Voice』だ。これはもともとミュージカルだと思っていたので、一幕目の一時間強の場面の演出は正直にいうと、はずれだった。主人公のひきこもりの苦悩と母親とのギャップの演出は台詞やセット母親の男の人間関係がからむ音楽プロデューサーとしての存在の前ふりは必然かも知れなないが、正直あちきの中では実に退屈な時間だった。このままの調子で休憩時間まで耐えられる観客の期待感はそれなりに忍耐強く、よく我慢しているなと思えるほどだったのだが、あちきの乏しい演劇鑑賞経験でもこれほどの退屈はなかった。例えば坂手洋一主催燐光群の演劇でも一、二作は自分がついていけない南海ホークスつまり難解すぎてしんどくて、そしていうている意味はわかるのだが、その作品を滝川某に書いた作品の再演だったが、思いでぼろぼろのわらび座の音楽劇を見たときとおなじような失望感があった。

失望感というか自分にははずれの作品もたまにあるが、『ラ・マンチャの男』で松本幸四郎や元宝塚の霧矢大夢のヒロイン見ても物語は知っているけど、そのミュージカルに入りこめた。それは蜷川演出で見た寺山修司作品『青い種子は太陽のなかにある』の音楽劇見たときにも入り込めた。カトゥーンの亀梨和也や高畑充希を主人公にに脇も豪華メンバーでそのスケール感とセットのメッセージ性や猥雑な世界を再開発で均してしまおうという行政に関わる官僚や政治家に連なる開発業者、そこで働く人の葛藤や状況がまさに1963年という東京オリンピックの前年に佳境を迎えた問題を普遍的に追求する演劇空間は新鮮で、偶然時間つなぎつぶしに見た映画『バンクーバーの朝日』の亀梨和也や高畑充希はこんなに歌えるのかと改めて思ったものだ。ピーターパンで鍛えられていたという話は知っていたが、特別な思い入れがあったわけではない。


しかし、『Little Voice』の演出趣向が実は 二幕からの劇中ショーに巻き込む布石として主人公ローラの音楽的才能をより強調するために、『白鯨』の小説が退屈な膨大な前フリであちきのようないらち傾向にある人間にはとても読む気にならない頁を読ますような演出手段なのだよ、というのならありだとは思う。

なぜなら二幕からの趣向は7人の生バンドが入りクラブ歌手としてデビューさせる大原櫻子演じるヒロインローラが大失敗をやらかすシーンからやっとでました、という演出家の意図が少しわかったからだ。しかし、あちきはそれがなかったらさっさと天王洲銀河劇場からボクシング会場のある有明コロシアムに移動するところであった。しかし、移動しなくて良かった。二幕からの趣向こそあちきには退屈な趣向であったという一幕がわかり、その演出に芸達者な先輩を配しているのに気後れなく主役を演じた大原櫻子の可能性を大きく引き出してみせ、「どうだ!」と一日2回公演もあるという天王洲銀河劇場に見事に星降る夜を見せたエンディングに引き込む。脇を固めた役者さんも実際に劇中で歌ったのは高橋和也だけだから、ミュージカルではない。『麦踏みクーツェ』のような音楽劇で観客の持参した鳴り物を一緒にかき鳴らし楽しむ舞台でもない。
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中島らもWORLD全開のG2演出の『キミはフィクション』のようなバンドと最低限の大道具と小道具であり得ない世界を観客に想像力を働かせ具現させる楽しみがあるわけではない。

『マイフェア・レディ』の定番的メロディーと楽しみのヒギンズ教授とイライザ……との言語指導の笑いもない。しかも野田演出や井上ひさし脚本や三谷幸喜的演出の笑いもこの『Little Voice』にはない。しかし、大原櫻子演じるローラをヒロインに仕立てる演出家の巧妙な罠が一幕だとしたら、あちきは初めてみて退屈な一幕にぼやきまくったが、それは誤りかもしれないということにおちつく。

あのエンディングの大原櫻子を見たらそして総勢6人の俳優と7人のば生バンドで見せた『Little  Voice』あの劇中クラブ観客の興奮は確かに観客をローラの歌声に巻き込みあの空間を共有した銀河劇場という素晴らしい舞台にこそふさわしかったということになる。

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なぜボクシングを語るのにこんな退屈な前フリの書いたのかと、もし聞くひとがあれば、あちきはそれで十分満足だ。それこそ、あちきの存在感でありんす。井上尚弥がどうした関係者どう絡んだとかいうことが、仮にですがあったとしても、あちきにしたらそういうことはやらない方がいい、といっておきたい。それがいい結果にならない傾向にあるのは、例えばサッカーJ1で言えば浦和レッズのMやP監督やKが証明している。あんたたちは『やべっち』の存在を越えられない、ということだけは申し上げておく。本業にせいだしてくんなまし。

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あちきは公言している。くまモン美子モデルは相性良い。ボクシング界で言えば、昨年大阪の上方落語まつりでもお会いしてチケット購入列で話したもしかしたら内山高志のおかんとは相性がいい。自然な話ができる間柄だ。しかしそのこととボクシングで内山高志対コラレスとのリマッチに失敗して再起するのかどうかの話は別のことだ。結果は僅差の判定負け。内山高志はKOダイナマイトのパンチを出しきれずKO負けした記憶のカウンターをもらうまいと消極的になった。途中にダウン取ってからは内山高志の流れになりかけたが、結果は負けた。そんなことを思いだすと、村田諒太のミドル級金メダリストの世界初挑戦の試合について、触れることに最大の関心を持たざるを得ないわけだが、その前にその日観戦していた横にいた男性が元プロボクサーで村田英次郎会長のエディ・タウンゼントジムの関係者だったというので、自分のボクシングファンの目について話ながらかなり上の席からの生観戦だったが、楽しんだ。

(以下続く)




追記 エディ・タウンゼントジムの会長村田英次郎は多くのプロボクサーを世界チャンピオンにしたエディ・タウンゼントをしてもチャンプにできなかったトレーナーとしての手腕及ばない「勝負運」のないバンタム級の選手としての姿が浮かんでくる。実際かつて読んだエディ・タウンゼントの逸話はあまりにも豊富過ぎてどこから切っても金太郎飴の図柄の面白さで連なり、それは彼が日本人妻を持ちあの藤猛をチャンプにして伝説の日系人。英国系カナダ人を父に日本人を母にハワイホノルルで生まれ1961年力道山の要請で日本仁招かれ力ジムトレーナーとして来日。1967年4月30日に藤猛を米国海兵隊除隊して日本でプロボクサーに育て、ロポポロを2回で倒し、藤猛の試合後の「勝ってもかぶっても緒をしめよ!」や「おかやまのおばあちゃん」への言説はあまりにも有名で伝説になったを手始めに、1969年にはフライ級の海老原博幸(協栄)、さらに1970年年末には柴田国明(ヨネクラ)をWBCフェザー級、1974年には幻の右のガッツ石松(ヨネクラ)をつくり、さらに田辺清のことを1982年Number21で語っている。

ちょうど藤猛がロポポロとやるんで、よみうりランドの山キャンプしとったの、田辺も一緒におって、走ってた。ある日、ホテルに帰って、ロビーに坐っとったの。水槽に金魚おったので、僕、「赤い金魚、きれいね」いうたら、田辺「赤い? 金魚?エディさん、冗談いうね」


田辺清はノンタイトル戦でホラシオ・アカバロ(アルゼンチン)に勝っており、アルゼンチンでタイトルマッチをやる予定だったが、網膜剥離で入院手術したけれども引退に追い込まれその代役が海老原博幸に回ってきた。しかし、海老原博幸は相手のホームタウンデビジョンで1ポイント差で判定負け。再起ならず、という不幸。その後の海老原博幸の強打者ゆえの拳の骨折やその後の海老原博幸の不幸を襲う数々のエピpソードを語るエディ・タウンゼントの話はもう涙なくしては語れない。後に同じく強打ゆえに拳の骨折で苦労した浜田剛史氏や内山高志や井上尚弥の系譜の元祖はフライ級のいち時代を作った海老原博幸にあることは、あちきのボクシングファン歴でも忘れられないひとこまであり、エディ・タウンゼントという稀代のトレーナーは赤井英和や井岡弘樹にまで連なっていることは、まさにレジェンドであるのだが、また横道にそれた。

>田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県青森市出身。ローマオリンピック(1960年)のフライ級銅メダリスト。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられ[1]、プロ転向後は技術とパワーのバランスの取れた逸材として世界王座を嘱望されたが、世界挑戦を前に網膜剥離を発症し無敗のまま引退。「悲劇のボクサー」と呼ばれた。(ウィキペディア)


村田英次郎に出会い、絶対にチャンプにいなると信じて育てた。しかし、英次郎はバンタム級初挑戦ではピントールと引き分け。そして3度つまりラバーマッチでチャンドラーと闘うことになるのだが、結論的には引き分け一度に二度のKO負け。

エイジロー、必ず世界チャンピオンになれるよ。この前のピントールとのタイトル・マッチ、惜しかった。引き分け。でも、エイジロー、頭シャープよ。カミソリね。いいボクサー、頭よくなければダメ。村田、四月にチャンピオンになるよ。

いま、エディ・タウンゼントジム会長の村田英次郎は自分を越えるアマチュアボクサーをスカウトして世界チャンピオンを育てるという使命を背負っているひとりだ。

村田 英次郎(むらた えいじろう、1956年11月30日 - )は、日本の元プロボクサー。滋賀県大津市出身。現役時代は下北沢の「金子ボクシングジム」に所属し、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得した。世界挑戦も4度経験し、いずれも奪取に失敗したが、うち2度はわずかに及ばず引き分けだったため「悲運のボクサー」とも称された。現在はエディタウンゼントジムの会長。身長166cm。


という追記をして、本日はNBA EASTカンファレンスのレブロン・ジェームスのCabsの試合中継を楽しむことにする。関光徳の追想はじっくり、さらに言えば村田諒太対アッサン・エンダムについての感想などは多くのことが語られ事態が動きつつあるので当面は静観したい。

さらに昨夜勘違いで夜中に起きた欧州リーグの決勝戦もあるので、そこはじっくり生観戦したい。スゥェーデンのイブラヒモビッチの凱旋出場がならなかったのは大変残念だが、モウリーニョというカリスマ監督の采配が好調ベンフィカにどういう試合をするか興味がある。セルタがチャンスあっただけに実に残念ではあるが、イアゴ・アスパスやグッディ(スウェーデン)にはやはり何かが足りなかったというのを、リーガのマドリード戦でも負けたことで感じたものだ。

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2017年05月17日

帝拳ジムボクサーの記憶と関光徳(ボクシング追想3)





BOXINGを語るときに何から言うかというのは話す相手によっては用心しなければならない。例えば井岡弘樹であれば、知人の雑誌編集者の社長が写真集を発売して支援していたこともあり、その出版記念パーティに本人や阪神タイガースの選手をゲストに招いたりという、いわゆる有名人招待の催しもあるので、井岡一翔の叔父の井岡弘樹の人脈の広さに納得がいくということになる。

小阪照男(こさか あきお)の憂鬱と高山一夫の壁デビー・ムーア帝拳たちの夢Plus関光徳


のパーティの招待状があちきのような者にも届き参加したことがあった。井岡弘樹が何度も挑戦して果たせなかった井岡家の悲願達成の三階級制覇チャンプ誕生ということで言えば、井岡一翔の努力と精進と自己節制の賜物であり、そのことについてはよくやったとは思う。


しかし、井岡一翔がアムナット・ルエンロンに挑戦した試合は挑戦者としてあまりにも消極的すぎて正直がっかりした。

いくらあちきがおひとよしで人魚のU・Hを横にして尻が触れ合う間柄になって観戦したといっても、それで2ポイントリードなどという悪ふざけはやめたほうがいいのは当然だ。

そのフライ級はローマオリンピックの年にはタイのポーン・キングピッチ(フィリピン)になっていたころ、日本BOXING界には軽量級の3羽ガラスが産声を挙げてきた。ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利だ。その前に名を売り出したのが日本では中量級の小阪照男(こさか あきお)だった。ライト級の小阪照男は17歳でデビュー期待されていたわけではなかったが、気がつけば新人王戦の決勝に勝ち上がり、1958年(昭和33)から27連勝という好成績でのし上がってきた。強打のサウスポーで名門帝拳の主力選手となり、ローマオリンピックの昭和35年には日本タイトルを取り、さらに2年後には宿敵となった当時のフリィピン英雄フラッシュ・エロルデに勝ち東洋タイトルを獲得して順風満帆に成長してきた。

後にさらに4度つまり都合5度も対戦したフラッシュ・エロルデには世界タイトルマッチでは勝つことができなかった。パスカル・ペレスの壁がフラッシュ・エロルデになったのだ。しかも最初の世界タイトルマッチの相手はプエルトリコのカルロス・オルチスだった。が小阪22歳の全盛のはずが為す術がなかった。二回にいきなり左フックでダウン。四回には反撃を試みたが当たらず。そして五回オルチスの右カウンターを浴びてぐらつきさらに右アッパーカットを撃ち抜かれロープで後頭部を打つ衝撃のKO負け。




それまでの日本最重量の世界タイトルマッチはフェザー級のデビー・ムーア対高山一夫の二試合のみ。

ジュニア・ライト級に戻してのフラッシュ・エロルデとの世界タイトルマッチはさらに2年後の1964年7月27日の蔵前国技館となっていたが、オルチス戦のころから我が家にも白黒テレビがあり、さらに東京オリンピックの前にはお隣の義理もあり、親が無理して月賦でカラーテレビ買ったので、いつでもBOXING中継を家で楽しむようになっていたから、カルロス・オルチスの体が同じライト級なのに一回り骨格が大きく見え最初から小阪照男は勝てそうにないと思っていた。その通りになった。カルロス・オルチスも戦績見たらそんな強打の持ち主ではないのに、小坂に勝っての成績で44戦39勝(14KO)4敗1ノーコンテスだったのに、なんじゃこれはという世界との差を感じた試合だった。

フラッシュ・エロルデとの対戦は当時4度目。しかし勝てなかった。お互いサウスポーだったが立ち上がりは減量苦のエロルデを小阪が連打でボディを攻めてペースを握ったように見えた。中盤の七回(当時は15回制)徐々にカウンターで反撃され12回に小阪は左フックでダウン。ダメージが大きく立ち上がったもののエロルデのラッシュが少し始まったところでレフリーストップ。TKO負けしたのだ。


後年、この老獪になった日本ボクサーの宿敵を破ったのは精密機械と言われたTBSと極東プロモーション「ボクシング教室」から誕生した沼田義明の出現まで待たなければならないのだが、先を急ぐ前に高山一夫と関光徳に焦点を当てなければならない。


高山一夫も帝拳の誇るホープで1958年(昭和33)に大川寛から日本フェザー級のタイトルを取り、6年間で8度防衛選手層の関係もあるけれども相手がいなくなりジュニアライト級に上げて日本タイトルを返上。しかし1960年(昭和35)つまりローマオリンピックのころには世界タイトルマッチの機会が訪れたもののそれは減量苦でフェザー級のタイトルを返上したフェザー級のデビー・ムーア戦だった。デビー・ムーアはフェザー級としてはずんぐりむっくりだったという印象があるが確かめないといけない。

キャリアだけ見ると高山一夫の成績は92戦60勝(25KO)16敗9分7エキジビジョンだから、いまの感覚でいうなら大したことないじゃんということになる。だが、デビー・ムーアとの初戦は高山一夫の評価を大きく挙げた。破れはしたがその結果リマッチも実現したのだ。いまはボクシング中継そのものが番組的に世界タイトルマッチしか視聴率的にもスポンサーがつきにくい状況なのでテレビ勃興期から隆盛時代とは背景が違うし4団体に加えて地域タイトルに年齢制限タイトルまであり、世界チャンプの肩書も誰と試合をやったかで評価される時代に移行しているから、乱立するとライトフライ級など日本人ボクサーの独占ということになりそうな勢いである。当然、テレビ局スポンサーの問題を抱えているが、統一マッチをしないと井の中の蛙状態になりかねないのはいうまでもない。

その点、WBCバンタム級の山中慎介の防衛記録は立派というしかない。強い相手との再戦を許諾しKOで退けいまや具志堅用高氏の13回防衛に備えて練習に励んでいるのだから素晴らしいとしか言いようがない。

いままで軽量級のパスカル・ペレスの強打や小阪照男が強打のサウスポーであり、関光徳の右フックから左のストレートが凄いとか言っても生観戦で3回も見た山中慎介の黄金の左、いや「神の左」見たらはっきり言ってみんな霞むな。山中慎介は謙虚で研究熱心で自己節制も大切にしているから芸能人や有名人の付き合いでも浮かれたところはない。好感度も上がる一方だがその点では、村田諒太も例外ではない。ボブ・アラムのトップランクとの大型契約でプロボクシングに転向。テレビ局の関係もあり三迫ジムに所属したが、実質国内マネジメントは帝拳ということで円満帝拳への移籍。広報マネジメントは電通のしきり。2012年金メダリストのミドル級という世界基準では中量級の選手層が厚いクラスで、ボブ・アラムが来日して用心深くプロテストからデビュー戦まで生中継されるという異例の扱い。やっとヘビー級チャンプになりクリチコとビックマッチでお互いダウンの応酬の闘い、11回始めにラッシュをかけて逆転KO勝ち防衛をしたヘビー級チャンプのジョシュアに追いつくチャンスが巡ってきた。
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とにかく2012年の金メダリストのプロボクシング転向者は着実に世界チャンピオンになっているのだ。軽量級では中国のライトフライ級2大会連続の金メダリストのゾウ・シミン。さらにライト級金メダリストのフェザー級でデビューした怪物ワシル・ロマチェンコは3戦目でフェザー級チャンピオンになり現在スーパーフェザーに上げて早くも2階級制覇して内山高志が対戦を希望していた二階級制覇を狙うニコラス・ウオーターをワンサイドで七回でTKO。さらにフォルトナにKO勝ちしてWBAの正規王者になったソウザにも圧勝の9回TKO勝ちというとんでもな技術とボディ、ヘッドの打ち分けに打たせないフットワークで3階級制覇を狙う存在もいる。さらにスーパーヘビー級から転向したジョシュアだ。いや、村田諒太が勝てばロンドン金メダリストから4人目の世界チャンピオンということになる。


ワシル・ロマチェンコは、ウクライナのプロボクサー。第20代WBO世界フェザー級王者。第23代WBO世界スーパーフェザー級王者。世界最速の2階級制覇王者。ビルホルド・ドニストロフスキー出身。 ウィキペディア
生年月日: 1988年2月17日 (29歳)
生まれ: ウクライナ ビルホロドドニストロフシキー
身長: 170 cm
体重: 60 kg
配偶者: Elena Lomachenko
階級: フェザー級、 スーパーフェザー級


アンソニー・ジョシュアは、イギリスのプロボクサー。ワトフォード出身。現WBA・IBF世界ヘビー級スーパー王者。ロンドンオリンピックスーパーヘビー級金メダリスト。距離を詰めながらの右ストレートを武器にプロデビューからKO勝ちを継続している選手。エディー・ハーンのマッチルーム・スポルト所属。 ウィキペディア
生年月日: 1989年10月15日 (27歳)
生まれ: イギリス ワトフォード
身長: 198 cm
体重: 113 kg
階級: ヘビー級


竹原慎二さんが日本ミドル級を世界チャンプにになり日本ミドル級の世界への風穴を開けたのだが、初防衛戦でウイリアム・ジョッピーにKO負けしてから幾星霜、そのジョッピーがウェルター級時代にオスカー・デラ・ホーヤとのBIGマッチにも勝利したフェリックス・トリニダードに簡単にKOされる過激な戦士が集まるクラスであり、アマチュアでも最も層が厚いクラスでだ。五輪で大会期間中すべてミドル級のウェート維持の必要な大会はプロと違った勝敗のか過酷さがあることは大会関係者ならよく知っている。

さらに言えば、佐藤幸治が帝拳に入り海外修行前提でドイツでシュトルムに挑戦したが、自身のジャブがまっくた通用せず、主導権を奪われKO負けした。また、石田順裕(いしだ のぶひろ)の挑戦した相手はゲンナジー・ゴロフキンという17連続KO防衛(通算18度防衛)したカザフスタンの怪物であり相手が強すぎた。最近もWBAの正規王者ダニエル・ジェイコブスとのビッグマッチはマディソン・スクエア・ガーデンでありKO防衛に失敗。ジェイコブスはダウンもあり善戦したが、勝ち切る試合つまり挑戦者としての気概は足らなかった。ともあれそのような相手に海外のモナコで挑戦した勇気は賞賛されるが、実力パワーの差はいかんとも仕方なかった。3ラウンドに捨て身で前へ出たらあっという間にKOされてしまった。

佐藤 幸治は、日本の元プロボクサー。福島県相馬市生まれ、千葉県野田市出身。第40代・第42代OPBF東洋太平洋ミドル級王者。帝拳ボクシングジム所属。西武台千葉高等学校、日本大学卒業。 ウィキペディア
生年月日: 1980年12月11日 (36歳)
生まれ: 千葉県 野田市
階級: ミドル級



石田 順裕(いしだ のぶひろ)は、日本の元プロボクサー。第28代日本スーパーウェルター級王者。第22代OPBF東洋太平洋スーパーウェルター級王者。元WBA世界スーパーウェルター級暫定王者。熊本県玉名郡長洲町出身。 2010年より、芸能に関してはアクアプロモーションに所属し、ファッションモデルを務めたこともある。 ウィキペディア
生年月日: 1975年8月18日 (41歳)
生まれ: 熊本県 長洲町
身長: 185 cm
階級: ヘビー級、 ミドル級、 スーパーウェルター級


フェリックス・トリニダードは、プエルトリコのプロボクサー。サン・フアン出身。ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の3階級を制覇し、1990年代を通して最強の中量級ボクサーとの呼び声も高かった。ニックネームは「TITO」。 ウィキペディア


1999年9月18日、IBF世界ウェルター級王者フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)を迎え、統一戦。無敗のスーパースター対決として注目を集めたが、途中から安全運転にシフトしたデ・ラ・ホーヤが僅差判定で敗れ、WBC王座陥落と共にプロ初黒星を喫した。
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モハメッド・アリこと当時キャシアス・クレイがローマ五輪のライトヘビー級で金メダリストになりプロになっったときは有名投資家たちがシンジケートを作ったのはあまりにも有名な話だ。後に当時の弁護士ボブ・アラムはモハメッド・アリのプロモートをするようになり世界一のボクシングプロモーターになり村田諒太のプロモーションでは海外遠征ではアメリカだけではなく、マカオのコタイ・アリーナでも試合を組むなど村田諒太はアマチュアも含めると海外試合の経験が豊富な点でも抜けた存在である。5月20日の有明コロシアムのボクシングフェスの3試合の世界タイトリマッチはテニスの殿堂が翌日の大橋プロモーションの井上尚弥に八重樫東の登場もあり最高のボクシング殿堂でもあることを予感させる試合となるのだから、あちきのような元もいまもボクシングお宅と言われても恥じないミーハーとしては、楽しみがいっぱいでありんす。

あちきの好きだったボクサーのひとり関光徳については次回にじっくりと思い出を語ることにしよう。


追記 村田諒太は判定負けした。解説陣は勝っている前提での話であることを録画で知った。その後の『情熱大陸』や『クローズアップ現代』の村田諒太のその後の心境を見た。なにゃーと…とあちきなら言うけど紳士な村田諒太はモハメッド・アリのようにボキャブラリー豊富に語らず、哲学者の言葉の引用などでの知性だけで対応した感じだ。正直がっかりだ。狗HKの編集はそういうように視聴者を誘導していた。これからも引退しても五輪のスポークスマン的に電通マネジメントに利用されるのか、自身が利用できるほど大物チャンプに再び挑戦するのかは定かでない。

村田諒太のその後の人生観よりも彼がプロボクシングのどの辺りを理想としているのかによって変わる。鬼塚のような写真判定疑惑専門の日本国内限定でないのは確かだろうから、ゴロフキン対アルバレスに挑戦指名試合を組んでもらうのもいいのではないかな? 電通はたかが電通ではない広告代理店ですからな。

今回の大規模有明コロシアムの興行が負けたことで電通でも赤字なら、ウジテレビの低迷をも救えない状態なら、叩き上げのボクサーでない以上、セカンドキャリアは無数にあることだろうが、電波タレントにはなってほしくない。大阪帝拳の辰吉丈一郎の対極にある。ボクサー史上まれに見る闘争心を出さない傾向にある、ボクシング評価大好きのボクサーであることを知った次第。


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日本ボクシング界には小さな巨人の井上尚弥の台頭でさらに動くかどうかはわからない? ここ数年の対戦相手や飛び階級制覇でサンタ・クルスKOするとかのファンとしての願望はあるけれども…。


いまNBAファイナルの選手たちの攻防がガチ試合の面白さで推移しているときに。
posted by torayosa at 21:44| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

ボクシング原体験前史 矢尾板貞雄(ボクシング追想2)







矢尾板貞雄の記憶

あちきは矢尾板貞雄の名前を白井義男以上に知り始めたのは自分も連れて行ってもらったことが一度あったあの、扇町の大阪プールで矢尾板貞雄がパスカル・ペレスと世界タイトルマッチをするというのをラジオで知ったからだった。パスカル・ペレスは後に小さな巨人と形容されたように小柄で当時の記録を確認すると体重48・5キロとフライ級のリミットにも満たないのだが、つまりライトフライ級でリングに上がるのが常だった。しかしその強打は白井義男からタイトルを奪いさらにリターン・マッチで5回KOで葬り去ることで白井義男という戦後の国民的HEROを引退に導いていた強敵だった。




さきごろ名門米倉ジムが閉鎖されたというニュースがあったが、当時のアマチュアエリートからプロ世界に入った米倉健志の技術をもってしても大差の判定負けしているというアルゼンチンのボクサーだ。

しかも女癖が悪いときている。当時来日したホテルで女性を強姦して、最終的には示談金を支払っている。マネージャーが事態の深刻さを受け止めアルゼンチンからすぐに夫人を呼び寄せたという、とんでもな挑戦者でもあった。しかし、ロンドン五輪金メダリストのパスカル・ペレスは白井義男に挑戦したときの成績が23試合22勝21KO1分という強打者でもあった。白井義男が減量で苦しむのに対してパスカル・ペレスはライトフライ級の軽量(48・8キロ)だったから残念ながらノンタイトルでアルゼンチン遠征で引き分けたとはいえ、白井義男には過酷な闘いであったという。パスカル・ペレス28歳。白井義男31歳。


1954年(昭和29年10月24日夜に強姦事件が起こった。白井義男に挑戦するために15日に来日したパスカル・ペレスは20日にスパーリングで鼓膜が破れたと一か月の試合延期を申し渡してきた。
そして24日にホテルの女性を強姦したのだ。強姦された女性は弁護士を通じて告訴した。日本ボクシングコミッションの事務局長のK氏が奔走して25万円の示談金で示談が成立したというわけだ。しかし、そんな騒動起こして勝ってしまう勢いがパスカル・ペレスにはあったということになる。

そして試合日は11月26日、後楽園球場に2万の観衆を集めて行われた。白井義男が減量苦もあり初回から押され一回にダウンもあり苦しみ得意のフットワークが鈍り12回にも左フックでダウンするなど完敗でアルゼンチン初の世界チャンピオン誕生ををもたらしている。翌年5月30日にリターンマッチが後楽園球場で行われたが白井義男は初回に2度のダウン、4回にもダウンして5回ペレスの右フックでKO負けした。


当時矢尾板貞雄は23歳。パンチ力はないがパスカル・ペレスとの10回戦の前哨戦で勝った。「美しくスリリングな槍のストレート」の記事を見た雁屋哲氏はその当時の感想をムックの『激動のスポーツ40年史 ボクシング』で語っているほどだ。しかしあちきは当時テレビを見る機会があったのは大阪駒川針中野温泉という当時のスーパー銭湯で見るか、金持ちの級友の招待でテレビの間に鎮座させられて野球を見せてもらうぐらいだったので、力道山のプロレスのようにテレビ中継をされていたことを知らなかった。

だからラジオのボクシング中継を聴いていたのだった。家族6人でラジオは炊事場に近いところにあり実に不自然な格好でラジオにかじりついたのは、大阪タイガース対東京巨人軍との天覧試合のラジオ中継での断片と前後する。

つまり、矢尾板貞雄世界タイトルマッチは昭和34年11月5日に行われていたのだ。しかし子供時代の記憶はいい加減で調べたら6月25日の後楽園球場になっていた。

ともあれ、あの天覧試合もラジオで断片を聴いていた記憶がある。ま、連続テレビドラマの吉永小百合の赤胴鈴之助があったからかな。赤胴鈴之助の漫画から想像する千葉さゆり役が吉永小百合だったのでものすごく会いたいという気持ちになったのに、映画化された実写の赤胴鈴之助の映画は真空斬りをジャズかロックかしらない音楽で踊るように殺陣やるもんだから失望したものだ。

横道から本道に戻す。

「美味しんぼ」の雁屋哲さんが矢尾板貞雄について最高の賛辞を贈っておられたというのは、後にボクシング・マガジンの別冊冬季号のムックの『激動のスポーツ40年史 ボクシング』で始めて知ったのだ。

ラジオ中継でボクシング中継を想像するのはサッカーと同じように実に困難なものだ。しかも漫画本や少年雑誌の寄せ集め知識での想像では映画館で見るスポーツニュースのような映像は頭で描けない。後に18歳になり就職してクルマで配達したとき関光徳対ビセンテ・サルジバルのラジオ中継を聴いたころには関光徳がサウスポーでリーチがあり、その左ストレートの様を少しは想像できたが、関光徳がダウン取ったのは左アッパーカットだった。このときは流石に興奮して配達用のクルマのラジオのボリュームを大きくしたものだ。

関光徳はフライ級からスタートしているがこのビセンテ・サルジバルとの試合はフェザー級だった。しかもメキシコシティの高地での試合だったのだが、矢尾板貞雄のフライ級世界選手権挑戦はこの白井義男を2度まで破った敵討ちでもあった。雁屋哲さんはこう語っていた。



世界戦に先立つノン・タイトル戦で、矢尾板のストレートがパスカル・ペレスの鼻を真正面から捉えてぐしゃりとつぶした瞬間の写真を新聞のスポーツ欄で見た記憶がある。
ノン・タイトル戦で勝ちっぷりが鮮やかだったので、世界戦でも矢尾板は勝って新チャンピオンになることを誰もが信じて疑わなかった。それなのに矢尾板は負けた。白黒テレビ画面の中でペレスが、娼家のやり手ばばあのような夫人と抱き合って狂気するのを眺めて、私は悲嘆にくれた。
あのとき勝っていたら、矢尾板は防衛を何度も重ねる名チャンピオンになったいただろう。それなのに、何故、あのとき負けたのか。ボクシングは恐ろしいとしか言いようがない。
矢尾板のストレートは槍のように鋭く、破壊力があり、スリリングで美しかった。今のボクサーで、あのころの矢尾板のように美しく正確なストレートを打てるものがいるだろうか。
今は評論家となられた矢尾板氏を後楽園ホールでお見かけすることがある。元世界チャンピオンの肩書を持つ他の評論家には感じない熱い物を私はいまだに矢尾板氏に感じるのだが、それは敗者の美学の故ではなく、あのストレートの美しさを忘れ難いからだと思いたい。


どうだ、というコラムを寄稿されている。しかし「美しくスリリングな槍のストレート」の記憶は残念ながらあちきは知らない。矢尾板貞雄23歳、パルカル・ペレス33歳。矢尾板は弱点といわれたボディを打たれて2回に奪ったダウンを挽回されていたという。強打を打たれて動きが鈍っていた。迎えた12回矢尾板は左右フックをボディ浴びダウン。そして立ち上がり再び同じパンチを浴びKO負けした。

あちきには扇町大阪プールに2万5000人も集めた試合だったという当時の記憶はない。ただ、ラジオでボクシング中継を聴いてからボクシングに興味を持ち映画館でのヘビー級タイトルマッチのニュースが流れると大きな関心を持ちその記録を新聞や雑誌で探しだした。

いわくフロイド・パターソンに勝ったこともあるインゲマル・ヨハンソン(スゥエーデン)との世界世界選手権は試合は映画館のニュース映画で見た記憶がある。


フロイド・パターソン(Floyd Patterson、1935年1月4日 - 2006年5月11日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ノースカロライナ州出身。元世界ヘビー級王者。

強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、ガゼルパンチと呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『はじめの一歩』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。

ヘビー級としては小柄だったが、それを活かしたピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年にインゲマル・ヨハンソンを左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。

21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録はマイク・タイソンに破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じカス・ダマトである。

インゲマル・ヨハンソン(Ingemar Johansson, 1932年9月22日 - 2009年1月30日) は元プロボクサー。元世界ヘビー級王者。スウェーデンのヨーテボリ出身。愛称は「インゴ」。その強打は“トール(北欧神話の雷神)のハンマー”と呼ばれた。身長183cm。
(ウィキペディアより)

ともあれパスカル・ペレスは33歳になってもノンタイトル戦で矢尾板貞雄に負けた1敗のみでしかも一度の引き分けもアルゼンチンでのノンタイトル戦の白井義男との試合だったのだから、「小さな巨人」形容にふさわしいボクサーではあった。矢尾板貞雄との対戦時すでに52勝36KO1敗1分であり、50連勝をストップさせたのが矢尾板貞雄だったのだ。いや、パスカル・ペレスは矢尾板貞雄に勝ち9度目の防衛に成功。その後にパスカル・ペレスを負かした選手がでるのは1960年まで待たねばならなかった。しかもタイのフライ級の宿敵ポーン・キングピッチの登場で関光徳、ファイティング原田、海老原博幸らが台頭してきたのだ。それにしてもこのころになると銭湯のテレビ中継もあることを十分に理解する小学校六年生になっていたので、なんとかテレビ中継に合わせて針中野温泉まで行ったものだ。


追記 5月16日 ところで久しぶりに新橋からゆりかもめに乗ることでお台場近辺のその後にも関心はあるのだが、実はその前の関心ごとは大原櫻子主演の『Little Voice』の観劇だ。天王洲アイルや銀河劇場には行ったことがない。しかし確認したら天王洲銀河劇場から有明コロシアムまではりんかい線に乗れば近いではないか。5時には余裕で有明コロシアムに行ける。


『カノジョは嘘を信じすぎた』のヒロイン役を射止めた大原櫻子がこんなに成長しているのに驚いた。マリリン。モンローのモノマネまでできる才能は共演者にも大きな評価を得ているという。ウジテレビはこういう才能を見出した亀田誠治という偉大なプロデューサーを過小評価していないか? 社長・会長が寿司とも界隈でもたもたしている間にウジテレビは、ロックフェラーの陰謀に陥ったのかい。

あちきはフジテレビ本田朋子や平井理央にばら撒きやった経緯から考えると実に残念だ。高島彩もテレ朝のNEWSキャスターに持って行かれたら、アカンやろ、と、種まきした身としては実に複雑心境でありんす。

ところでWOWOWでBoxing世界の拡散に実績のある「エキサイトマッチ」が除々にしぼみつつあるのは
実に残念だ。ビッグマッチは確かに魅力あるが、あのマニー・パッキャオがオスカー・デラホーヤとやった前後のわくわく感が薄れつつある。

団体乱立と世界チャンプの相対的希薄さに原因があるのかもしれないが、あちきの願望としては、シュガー・レナードがマーベラス・ハグラーとのビッグマッチやったころの興奮までときを戻すべきだと感じる。そういう点では、ウォード対コバロフとのリマッチやゴロフキン対アルバレスの実現は喜ばしい。

来月CLの決勝は義理もありフジテレビ見るつもりで、来月からダ・ゾーン加入してJリーグの盛り上がりに期待しているわけですが、セレッソ大阪が親善マッチでセビージャとやるという話題もある。セビージャ監督がどうなるか知らないが、サンパオリ監督のパフォーマンスを生でみたい願望あるけど、アルゼンチンのW杯あれだけタレントいるのにピンチやもんな。


(続く)
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2017年05月11日

 ボクシング原体験前史 白井義男(ボクシング追想)






小学校三年になり学校の近所のボタン屋つまり小さなボタン加工工場からボタンを集める遊びが流行りだした。きっかけはその近所に住む同級生が道に落ちているボタンを拾って机の上に広げて、おはじきのように遊びたしたのがきっかけだった。


その遊びには興味を少しはもったものの気まぐれで常に人の輪の埒外ないるおれは気がつけば誰よりも魅力的なボタン収集家になっていた。それは仁丹ガムで粗末な野球グローブを手にいれるためにいつの間にか面子つまり大阪ではベッタンのようにやり取りする遊びが駒川の横丁で始めった記憶とつながる時節、三年三組ではピークを迎えたころ、おれの手元にある本は教科書以外には母親から買ってもらった小学生用の分厚い百科事典だけだった。

それ以外は貸本漫画に夢中であり、四年生になるころには、駄菓子屋のお好み焼き屋に行く小遣いをためたらそこで少年雑誌を読みふけった。



どういういきさつでボクシングに興味を持ったのかははっきりとは覚えていないが、百科事典でボクシングの世界チャンピオンの項目があり、そこで日本国始めての世界チャンピオンの白井義男が誕生という記事の断片が鮮明に残ったのは確かだった。

白井義男によって日本のボクシング史が世界に開かれたというのは現在白井・具志堅ジムとして具志堅用高氏がチャンピオン育成にも力を入れており、2017年5月20日のボクシングフェスでは、久しぶりの沖縄出身チャンプを誕生さそうともくろんでいる。

「注目:デビュー以来12試合全KO勝利中の比嘉大吾の世界初挑戦。KO勝利で王座奪取となれば、日本人初の快挙、全試合KO勝利世界王者。パーフェクトチャンピオン誕生なるか?運命の13試合目に注目。」

というわけだ。他に拳四郎もライトフライ級で世界タイトルマッチをやるというわけだが、その日の村田諒太のことに触れる前に白井義男の記憶について記して置きたい。


白井義男が銀座のボクシングホールで総司令部のカーン博士と出会ったのは昭和23年つまり1948年7月のことで、あれはまだおれが一歳にも満たないときのことだった。


《それから白井義男は二年足らずで「日本の白井」となり四年目には三段跳び鮮やかに「世界の白井≠ノなりおわせた」》と記したのは中村金雄でした。

シンデレラ・白井義男≠フ記録を「文藝春秋に見るスポーツ昭和史 第一巻」≠ゥら見てみると白井義男がいかにめぐまれたボクサー体型であったかを改めて知ることになります。

112ポンド、身長164センチでリーチが身長より7センチも長い171センチという

《世界一流の拳闘家だけが持つという天分、ナチュラル・タイミング》をカーン博士に見出されたのを実感します。中村金雄はカーン博士の言葉として、


《白井君、君は普通の選手が三、四年、いや、それ以上の年月を費やして、やっと習い覚えるほどの技術をわずか三か月足らずで、よく習得してくれた。私は君に、心からお礼いう。世界一流選手でも、なかなか君ほど、完璧なタイミングに恵まれたものはすくない。その君を指導することができたことは、私の生涯の誇りになる。そして君は将来、きっと日本の誇りになる。》(書昭和27年4月 花見読本)

白井義男が日本に科学的ボクシングを導入するまでは、こういう選手は出ていませんでした。ピストン堀口という伝説のボクサーがいましたが、最後はパンチドラッガーになり事故死しています。

白井義男のことを記した中村金雄は初代KOアーティストという異名があり1933年(昭和8)5月23日には日仏対抗試合フェザー級代表決定戦でピストン堀口と対戦しています。当時ピストン堀口こと堀口恒男はまだ19歳。ところがピストン堀口は2Rにななと中村金雄をKOしているのです。

ピストン堀口の異名は機関車のピストンのように繰り出す左右の連打からつけられたのです。当時のピストン堀口の成績を調べると「馬入川鉄橋上で機関車による轢死」もやむを得ないほど試合をしています。176戦138勝(82KO)24敗14分です。

アマチュアならともかく、この試合数が科学的ボクシングよりも根性論によって支配されていたことが垣間見えます。バーナード・ホプキンスが50歳で引退しましたが隔世の間があります。

しかし先駆的な中村金雄やピストン堀口がいて、槍の笹崎こと笹崎(人ベンに黄 たけし)≠ニ戦前戦後と5回対戦。ピストン堀口に憧れて北海道から東京に出てきてボクシングを始めた笹崎は初戦時37勝1分だったが、ピストン堀口のラッシュと連打の前にKO負け。戦後5戦目にして現役復帰してきた笹崎はようやく勝っています。その笹崎が米屋の小僧のアルバイトしていたときにたまたま通ったジムが笹崎ジムであり、そこから19歳の世界フライ級チャンプのファイティング原田が育ったことはあまりにも有名です。

白井義男が世界への道を開拓したからでしょう。白井義男が世界フライ級チャンピオンのダド・マリノと対戦したのは3度あり初戦は判定負け。2戦目はKO勝ち。3度目やっと世界挑戦のチャンスを与えられて大差の判定勝ち、日本ボクシング界の金字塔になったのでした。




白井義男自身が書いた「カーン博士と私」の一文を(「文藝春秋にみるスポーツ昭和史 第一巻」から読むと1943年(昭和18)にプロ入りした白井義男がいかに、精神的にも肉体的にも合理的な考えを持ち練習をしたのかがわかります。

昭和27年(1952)5月19日にダド・マリノに世界戦で勝ち日本初のチャンピオンになっていますが、カーン博士との出会いがいかにボクシングの科学的根拠がスポーツ科学の進歩に貢献したのかを垣間みせています。


《昔ある学者がこういった。
「名人とは、常に冷静である事。そして物事には計算づくでなくてはならぬ。又身の安全を計る。例えばここにあばれ馬がいる。その足元をすばやく通りに抜ける事は名人のする芸ではない。名人というものは絶対に身をキケンな状態にさらさない。出来るだけ安全を計り、遠廻りして目的地へ着く。これが真の名人である。」
この文章に私はひかれて何度も何度も読み返し、「これだ」と思ったと同時に今まで自分のやってきた事が馬鹿馬鹿しくなって来た。という事は、従来日本ボクシングは体当たり戦法で打たれれば打ち返すという無策な事ばかり繰り返していた。将来において体をこわす事も知らずに相手の心理状態を利用し足(フットワーク)を生かした左手を有効に使い、相手にさそいをかけては打ち、相手が反撃してくればすみやかにさがる。しかしこの時、かんじんなことは、攻撃には連打(コンビネーション)これは練習時代でマスター出来る事である。例えば左ストレートを打てば右も打てる状態になっている。右のストレートを打つと今度は左のアッパーカットでもフックでも打てる。打った後、右のストレートでも打てる。これがひとつひとつのコンビネーションだ。(中略)

カーン博士のコーチを受けた時、左のアッパーカットの攻撃動作をくり返しくり返し長期間練習したことがあった。他から見れば教える者も教えられる者も何かにつかれたように夢中だったらしい。しかしこの練習のかいがあって、時のチャンピオンをものののみごとに左アッパーカットをボディに入れてKOし、全日本チャンピオンとなることが出来た。》


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(続く)
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2017年04月21日

佐藤龍一「LEGACY OF LOVE」ALBUMとの出会い その2




「天使が空降ってくる」という願望は男女問わずいくつになってもあるかも知れな、と思ったのはあの三田佳子がテレ朝のドラマで老婆の恋による若者殺人という役どころをこなし天海祐希演じる取り調べ官と丁々発止のやり取りをしているところを演じているのを見て改めて感じた。






あちきが佐藤龍一氏という音楽家に偶然出会ってことで羽琉多筆記モデルの存在をあのとき、見せたのだとしたら確かにあちきには、素直に喜ばしい。しかし、あの日あの時あちきは筆記ちゃんが若いイタリア男との再婚を見せつけられながら、京都島津アリーナでの村田諒太のボクシング観戦デートを試みていたという、バカな老いらくの恋の一途だったという情けなさ。そりゃ井岡一翔はアムナットに2ポイント勝ったとかいうている場合じゃなかったことは確かでありんす。




9月27日のさいたまスーパーアリーナでの安室奈美恵のLIVE参戦にはそういう自分自身への癒やしでもありんす。恋は切ない。愛は愛しい娘に向ける、という行動原理に普遍性がある、というのが世の習いとしたら、あちきは統合失調症という病を抱えて小島某に@「オッパーピッ!」と引っ越し荷物を運ばれ、何で自分が病気になったのかは定かでなく、

そのはるか昔、ドリカムの「大阪LOVER」がクルマのFMから流れてきたときに、ああ! ドリカムの美和だったかがあちきのためにこの歌歌っているんだ、と妙な感覚になったものだ。そしてあちきは、昨年の6月から7月にかけて躁状態になり、選挙運動の橿原でのビ配りに加えて、連日の宝塚歌劇から桂文枝独演会にドリカム万博公演まで出向き、母の30回忌追善供養のために河内音頭 河内家菊水丸追っかけで四天王詣りの盆踊り、そしてサッカー観戦に9月になれば少し控えようという間もなく、安室奈美恵ホール公演「キミだけのHERO」のポスターがアパートの壁から拡声器になり聴こえ気がつけば台風接近の大阪フェスティバルホール公演の3日間に2日通っていた。

いや、人生ひとのこころ模様はお天気のように移り気でその後の秋になにごとがあったかはここでは止めて置こう。




佐藤龍一氏の「LEGACY OF LOVE」つまり愛の遺産には、彼の人生の第2ラウンドからチャンプ目指すボクサーの気概があり、彼にできるならあちきは元コピライターとして、はったり人生を思い切りふくらませる、ということで、今朝は「赤い鳥」「オフ・コース」の音楽聴きながらこの日記は藤圭子さんのYouTubeを聴きながら書き、宇多田ヒカルという稀代の音楽家に「こころ」奪われたとしても老愁に悔いなしとまいりたい。

新口村 恋飛脚大和往来











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2017年04月20日

佐藤龍一「LEGACY OF LOVE」ALBUMとの出会い

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どういうきっかけで佐藤龍一氏の音楽に出会ったのかを思い出せない。多分Twitterに何かの拍子に佐藤龍一氏のつぶやきがあり、それでブログやホームページを見たら音楽専門学校講師などをやり過ごしながら、その後歌うことを再び始めたということに興味を持ち、2014年埼玉スーパーアリーナでの安室奈美恵BALLADA ALBUMを引っさげてのアリーナ公演に久しぶりに埼玉スーパーアリーナに行って見たいというのがきっかけだった。
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その翌日の新宿のBIGEGGでLIVEに佐藤龍一氏が出演するというのを知り翌日出かけたのは、あちきの誕生日の自分への祝福でもあった。その日セレッソ大阪はなんと浦和レッズに勝ったというのにフォルランが加入したというのに下位を低迷降格争いをするという年だった。


初めての電子チケットによる入場はどんな席かわからないのに2万円が相場になっており、あちきはauガラ携で送られてきたQRコードに不安を抱いていた。そして手には格安スマホのBIGLOBEを持ち慣れぬてつきでSHARPSH90を操り写真を撮り、Wi-Fiの使い方がうまくいかずにいらいらしたり大宮のネットカフェで、Wi-Fiを試したり、スマホの電池持ちにも無知だったので、充電をしたりしていた。泊まったのは、新宿のカプセルホテルでそこには外国人バックパッカーもたくさん泊まっていた。その施設のWi-Fiがなぜか階数によってどうしても繋がらないのだ。こういう仕掛けがその後たびたびあったので、その後はまたか、と思うようにしているが、埼玉スーパーアリーナの絶望的な後ろの席で安室奈美恵の公演を楽しんだ。

翌日新宿BIGEGGでの佐藤龍一氏の出演する会場にゆくまでに新宿から大久保界隈の日本のなかの異邦人世界文化の街をぶらぶらして、少し早めにBIGEGGの場所を確認して、また近所をぶらぶらしてとき、ギターを抱えたミュージシャンが店からでてきた。その人物とはもちろん面識はない。
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本当にこのような時間にLIVEやっているのか、という不安がよぎるほど昨夜の埼玉スーパーアリーナーの数時間前からの安室奈美恵親衛隊などがあつまるなりきり安室奈美恵ファンクラブ員たちのグループを眺めながらも、チケットboardの電子チケットが分配でのないのに入場できるのか常に不安がつきまとっていた。9月初旬の大阪城ホール公演では分配だったので、事前にこれで入場できますか? と訪ねても問題はなかったのに、今度は確認したら他人名義なので入場できません、と冷たく言われた。冗談じゃない。2万円に決済手数料などもあり、大阪城ホール公演のときより高い金で落札しているんだ。と焦った。しかしどうしようもないのでチケットのネット販売会社に連絡した。なかなか休みなのか連絡が取れないので、JRのさいたま駅に戻り休憩して時間を待った。しかし既に開場したので焦り開き直ってQRコードをかざす列に並んだ。ファンクラブやお財布携帯とか入場入り口が厳格に分けられていたので、それでもその後うろたえたこと多数あるが、この日は連絡が取れないのでとりあえず入場を試みるしかなかった。

それで良かったのか。名義は女性だったと知ったのは、その小さな画面のQRコードの画面には座席番号と名義が小さく書かれていたのだった。

あちきの目では読めないので入場してから係員に読んでもらい、それをmemoしてやっと座席がわかった。その後スマホの知識がたかまっためたそのQRコードをスマホに転送したらスマホで入場できることも知ったが、その当時はスマホを手にしてまだ一週間だったので、何やっているかをよく理解していなかった。

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ともあれ、佐藤龍一氏の出演のLIVEとの落差は音楽環境としては天地の開きあるが、音楽にかける情熱に貴賎はない。

LIVE HOUSEに行くことが数回目であり、その規模のありようの落差にひるんだのだ。列は一時間前には誰もいなかった。30分前でもまだいなかった。15分前になり、あちきは列の一番まえにいた。その横にひとりの愛する娘に似たシンガーソングライターがいたとしても、あちきはその存在が本人かどうかなど聞く余裕はなかった。いや、本当にその通りなのだ。

しばらくして店員兼任のミュージシャンがでてきて、入場案内をした。一番まえなのでライブハウスは特等席だった。目の前だ。

「誰のアーティストファンですか?」と聞かれたので「佐藤龍一さんです」と答えたものだ。

出演者は後ろ席に控え座席は気がつけば塞がっていた。奇妙な女性のダンスパフォーマンスがあったり出演者のプログラムが異様だった。女性のグループかコントのように徘徊してあげくにスクール水着になり、パンストかぶるパフォーマンスに真っ昼間も忘れさせる様子に頭がクラクラした。

あちきはビールを飲みアルコールの力を借りて場に溶け込もうとした。音楽コンプレックスがある。ギターを友達に教えて貰ったら、「お前には無理やと」言われ守屋浩「僕は泣いちっち」になりギターの弦が切れてあちきの頭の線も切れた過去があり、中学の憧れの「麗しのサブリナ」に家庭訪問にようやく辿り着き、庭の卓球台で卓球することになったのに、そのギター教えていた友はあちきを立てることなく完膚なきまでにドライブや複雑なサーブを繰り出し、浮いた玉をスマッシュ! ドライブボールを持ち上げたりカットで返せないあちきをやっつけ、その憧れの麗しのサブリナは、落第点をつけていた。早い話振られた。

ところで佐藤龍一氏のブログで少し過去を知っていたので興味を持ったのは、メジャーデビューしていたのに数年で国外放浪の旅にでたということ。さらにニューヨーク生活やバルブの頃はゲーム音楽の作曲家としてあぶくのように稼いだ時代があったことなど、変わった過去を持ち五十代後半にシンガーソングライターとして、LIVE HOUSEで歌うようになったという経歴に興味を持ったからだった。

そのときの曲の名前などmemoもしていないので覚えていない。しかしひとつ強烈に印象に残ったのは、人間を掘り下げる心象風景に留まらず、人間の細胞に入り込みDNAまで歌詞に刻んでみせた歌だった。


そのとき関西出身のエーベックスでメージャーデビューしたこともあるバンドリーダーも出演していて、修平さんで、その佐藤龍一氏の歌詞とメロディを話題にして、わたしはそのソロシンガーがミュージシャンとしてふたたび輝く舞台へ戻ろうという意志を強くもったことを感じて、音楽家って何を想像できるか、だろうけどいいなって実感したものだ。

佐藤龍一氏はそして、この3月20日自ら個人レーベルを立ち上げ積極的なLIVE HOUSE活動を展開している。

彼のブログを読めば、あちきがなにかいうことはないと言えばない。Twitterには的確なレビューが並んで入り。それそれの音楽素養が反映されており、その細かな音源への興味はつきない。





ただ、あちきにも「なけなしのジョーニーのくせに」はあてはまるし、「愛っていったいなんなの」とキャバレーの愛ちゃんとの葛藤との日々を思い出すし、「嫌いになりたい」ということはないし「その痛みにはわけがある」。高倉健のように演じられないおじんはひとこと多い言の葉を発することになるし、「夜の秘密になりなさい」とかの比喩はあちきにはむりでありんすとその言い訳をできるし「青空ファンク」に前向きに生きることをよしとし「骨」は八代亜紀や都はるみや藤圭子であり、他人船のスナック「B」のカラオケの世界「赤いハンカチ」であり、インスツルメントは歌詞読んでもそうなのか、自分の音楽素養のなさに思い悩むし、「還らざる河」に道頓堀のドン・キホーテとglicoのネオンを見て、「百億年の夢」に宇宙生誕137億年のカオスを感じ「愛の歌は終わらない」とMステ「愛唄」鉄板ソングに杭さす行為に佐藤龍一の面目躍如を頼もしく思い、「天使が空から降ってきた」とは確かに言いえて妙で興福寺 阿修羅像の公開展示こそ神の掲示、仏の慈悲あちきは、その熱意をロームシアター京都での安室奈美恵公演参戦四度目の事実に新曲を全く知らなかったことを後悔しながらも、あのロームシアター京都初参戦1月10日の四階桟敷席で袖触れ合うところで大好きどころか、恋文仕様のプロポーズ小説の満額関東ならぬ回答の合図だったのなら、逃した大魚の大きさに唖然とするしかない。しかしあちきは熊紋美子モデルがいる。
人生を語るのに多弁は無用。





佐藤龍一「LEGACY OF LOVE」ALBUMには地球人の人生が詰まっているというのが、彼の音楽家の「愛の遺産」だということを思い知った。

このCDとの出会いで人生の屈折や苦難や試練や憂鬱が少しでも解消され、生きる勇気、生き延びる知恵が得られるとしたら、年を重ねることは悪くない。


若者よ! 身体鍛えておけ





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2016年11月22日

天城恋人の電車道U(2)

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マルコムX [DVD] -
マルコムX [DVD] -

ところで奴≠ェマルカムXに共鳴したのはキャシアス・クレイことモハメッド・アリの影響を受けていたことは確かね。だってモハメッド・アリはベトナム戦争の最中に徴兵拒否して世界チャンピオンのタイトル剥奪されるわ徴兵拒否の裁判闘争しなくちゃならないわ、ブラックモスリムの信者になったことで最初の夫人と離婚するなど次々と身に降りかかる災難とも戦ちゃったんでしょう。奴≠フモハメッド・アリWHOEL STORYのDVDにそのことが詳しく映っちゃっていたからさ、あたしも父のことを知らないし思わず見ちゃったの。だってさ、あたしだって自分のルーツは少しは気になるじゃない。それから比べればマルカムXは自分の父が何者かに暗殺されて、それがきっかけで母親が精神病になり、自分も多くの家族の中自立するためにボストンへ出てあらゆる黒人の悪の仕事を学び監獄へ入ったことで独学で勉強して最初はブラック・モスリムに入ったんでしょう。その頃には彼はなんとやがて、イライジャ・ムハッマド教祖の二重人格ぶりを知るようになり、ブラック・パンサーになったんだって。つまり「ブラック イズ ビューティフル」だったかな。白は美しい白人の直毛が美しいという根底を覆すブラックスワンの美しさを唱えだしたそうよね。未だに白は正しい。黒は暗黒のSTAR WARSの映画のように暗黒面とかいうじゃない。日本だって悪人は黒でしょう。紫とは言わない、だって色部とかなっちゃうじゃない、と安邑奈美恵は冗談を交えながらもフォースの覚醒を自分に促すように奴≠フNOTEの秘密を探りだしていた。実際ブラック・モスリム時代のモハメッド・アリはマルカムXとも親しかったそうね。だってキャシアス・クレイ時代にアリさんがソニー・リストんをやっつけた頃からアリさんを応援していたっていうじゃないの。マルカムXの本には家族と一緒に写真撮っているのが掲載されちゃつているんだもの。ところで奴≠ェ『温人NOTELooseLeaf』を始めたのは最初そんなことを中心にしようとしていたわけではないのよね。東京五輪の誘致が話題になっていたのでまずは、その辺りの話から温人と一緒におさらしいたいってことだったみたい。確かに奴≠フ関係者御用達のブログではその準備段階の記事がアップされちゃったようだけど、正直あたしはさ温人の進学とか事務所独立問題で不利な立場にさらされたりで大変なことも経験しちゃってるからさ、読んでないわね。それどころじゃない。早く事務所問題片付けて次のステップに踏み出さないと温人にも迷惑かけちゃうじゃない。週刊誌やテレビワイドショーの格好の話題になっちゃったんだからさ。「安邑孤立!」とか「R事務所にお詫びの手紙で土下座」とかさ。あたしは奴隷じゃ嫌だ! っていう気持ちあったのは確かね。だってさ、あたしがあるのは事務所のお陰だとは感謝しているけど、あたしの個人事務所は名だけで母屋ないのよね。あたしに入って来ない。あたしが公演と音楽CDやDVD売れないとやっと立ち上げてもらった個人レーベルにも迷惑かけるじゃない。あたしはステージ好きだからさいつまでもLIVEで勝負したいじゃない。すくなくともAMURA NAMIE STYLEの維持があたしの魅力でありファンがもっとも期待しているところでしょう。そこを維持するためにがんばっちゃっているの。そうでしょう。鏡に向かっていうことじゃないけどさ、ホントそう思っちゃうのよね。いまのHALL公演の88本もスタップの皆様のお陰で決まっ以上、シンプルでも最高のパフォーマンスで全国駆け巡りたいじゃない。確かに電子チケットになったにもかかわらずさ、プレミアムがつきチケット販売代行やオークションサイトで高値で取引される傾向は大問題だけどさ、本人限定にすればそれはそれでさ、当日どうしても来れない席が空席になるのを見るのは寂しいじゃない? あたしが考える問題じゃないけどさ、あたしはYTさんじゃないんだしね。いまやっと始まった個人レーベルに貢献して自分の個人事務所も稼がなくっちゃならないのは確かね。


ところで奴≠フ『温人NOTE LooseLeaf』の推理しちゃおうかな。と安邑はメイクのNさんとのさまざまなことを思い出しながらもまずは、温人NOTEのその後を探り始めた。

「オリンピック競技大会とW杯(ワールドカップ)

 1987年という時代は、日本が1980年にモスクワ大会をボイコットしたことによって、オリンピック競技大会が東西冷戦の緊張再び露骨化し、まさにヒトラーのベルリン大会≠ェそうであったように、またまぼろしの東京大会≠ェそうであったように政治≠ェつまり『国』が露骨に建前をなおざりにして、国威発揚≠キる時代でした。ソビエト社会主義連邦のアフガニスタン侵攻に対してアメリカNATO(北大西洋条約機構)が反旗を翻し中央アジアの覇権争いになったのです。
1936年(昭和11)ヒトラー政権のナチスドイツのベルリンで行われたオリンピック競技大会は政治的緊張の中で行われました。1940年は日本が日獨伊の三国同盟を結ぶ東京で行われる予定でしたが第二次世界大戦のために中止になりました。その事情についてはまた詳しく触れます。ところで、いま温人くんは「オリンピック競技大会」というニュアンスをどう感じるのでしょうか。つまりつまり「東京オリンピック」が実は「東京オリンピック競技太会」だという事実を丁寧に伝える単語を並べた語感のことです。と、いうのはネ! 1988年冬季オリンピック競技大会が長野で行われており、日本では過去3度もオリンピック競技大会が行われているのです。1964年の東京オリンピック競技大会と札幌冬季オリンピックが1972年にありましたから三度です。何を言いたいのかというとですね、オリンピック競技大会の歴史を見るとね、最初は古代オリンピック競技大会のギリシャの発祥の地アテネ≠ナしょう。つまり本来は都市の競技大会なのにいつの間にか国≠フ競技大会にすり替わっているんじゃないか、と感じるんですね。元オリンピック競技大会のおたくの感想ですけどね。朝早く起きて小学校6年生のときに家に一台しかないラジオにかじりついてローマオリンピック競技大会のとくに陸上競技を雑音まじりで聴いていたんですからね。あのとき100mでハリーが勝ったということを未だに覚えているのですから、親も姉たち姉弟も呆れていたものです。ハリーは確か西ドイツのスプリンターでした。もちろんアベベ・ビキラが裸足でアッピア街道の石畳を走ったこともラジオですからどんな顔かは雑誌で知りました。映画館で当時はニュースが流れたのですが始めてアベベ・ビキラを見たときのあの哲学者のような風貌は忘れられませんでした。800mのピーター・スネル(ニュージーランド)など思い出します。どんな姿で走ったかは後のローマ大会の記録映画で知ることになったのですがラジオであんなに興奮したのは映像がないからでした。ボクシング中継がラジオであったことなどいまでは信じられないことですが、サッカーのような複雑な競技でも当時はラジオでしたからね、ボクシング以上に何がどうなっているのかわかりようがありません。
オリンピック競技大会の歴史に触れる前に、この前の『温人NOTE3』(CHECK MATE)でヘルマン・ケステンの『ゲルニカの子どもたち』によってカルロス少年と温人くんが同世代の年齢なので、いろいろ引用してカルロス少年が独裁者のフランコやヒトラーの圧力によって理不尽に爆撃されたり、フランスへ逃げ込んだりしたいきさつに触れたんだけど、オリンピック競技大会も1970年のミュンヘン大会(西ドイツ)では大変な事件が起りました。『ミュンヘン』という映画になっていますから、Amazonででも購入すれば見れます。

1972年9月5日、ミュンヘンオリンピックの開催中、パレスチナの過激派組織「黒い九月」のメンバー8名が、オリンピック村のイスラエル選手団宿舎に侵入、抵抗した選手ら2人を殺害し、残る9人を人質に取る。彼らはイスラエルに収監されているパレスチナ人の解放を要求。解決は西ドイツ警察に任されることになったが、テロリストとの銃撃戦の結果、イスラエル選手団9名が殺害され、人質11人全員死亡という悲劇的な結果に終ってしまう。

この事件に対し、イスラエル政府は報復を決意。テロの首謀者とされる11名のパレスチナ人の暗殺を計画する。イスラエルの首相ゴルダ・メイア臨席のもと、アヴナーは実行部隊のリーダーとして、モサッド上官エフライヒムから「神の怒り作戦」の説明を受ける。実行部隊のメンバーは、南アフリカ出身の自動車のスペシャリスト・スティーブ、爆弾製造を担当するロバート、現場の「掃除」係である年長者のカール、文書偽造の専門家のハンスである。暗殺のターゲットの多くは、ヨーロッパで活動するPLOの幹部や協力者であり、イスラエル政府とは関係ないがごとき行動が強く要求された。彼らはフランス人のルイという男に接触、情報を得て作戦を進めてゆく。

第一の作戦の標的は、アラファト議長のいとこで、ローマで翻訳家として活動しているワエル・ズワイテルだった。待ち伏せし小口径の拳銃で射殺する。第二の作戦の標的は、PLOパリ代表部幹部のハムシャリで、電話に仕掛けた爆弾での殺害を計画、ハムシャリの娘を誤爆しそうになるものの、殺害に成功する。第三の作戦の舞台は、キプロスのホテルで実行され、滞在しているPLO幹部の部屋のベッドに爆弾を仕掛けるが、爆薬の量が多過ぎ、無関係の宿泊客も巻き込んでしまう。第四の作戦は、レバノンのベイルートで行われ、PLOと黒い九月のメンバーが宿泊していたアパートをイスラエル軍の部隊とともに襲撃。PLOのスポークスマンであったカマル・ナセルも含め標的3人は殺害される。

第五の作戦は、ギリシアのアテネで行われた。あらかじめ手配されていた宿の一室で、アブナーのチームはPLOメンバーと名乗る男と出くわし、パレスチナ人としての立場、すなわちイスラエル勢力に母国を奪われてきた境遇を直に聞くこととなる。アテネでの作戦では、標的抹殺には成功するものの、現場にいたソ連のKGBエージェントも銃撃してしまう。

次の標的は、ミュンヘン・オリンピック事件の最大の黒幕とされる「サラメ」であった。彼をロンドンで発見するものの、作戦着手寸前で酔っ払いに妨害される。ルイの情報では、アメリカのCIAの関係者が、サラメと裏取引をしており、作戦を妨害している可能性があった。そんな中、アブナー達のチームも一人、また一人と暗殺されてゆき、彼らは次第に追いつめられていく。

映画は1972年のミュンヘンオリンピック事件と、その後のイスラエル諜報特務庁(モサッド)による黒い九月に対する報復作戦を描く。ジョージ・ジョナスによるノンフィクション小説『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』を原作とし、トニー・クシュナーとエリック・ロスが脚本を担当した。『シンドラーのリスト』、『プライベート・ライアン』に続くリアルなグロテスク描写のある作品であり、日本における公開ではPG-12指定を受けた。

この映画に登場するアヴナー率いる暗殺チームは実在した集団であるとされ、一部創作しているが、この映画の大体の様に「黒い九月」の幹部達を次々と殺害したと言う(なお、アヴナーら当事者は全て仮名である)。現在アヴナーは名前を変えてアメリカで暮らしている。しかし、モサッドの元高官らはアヴナーの証言を否定している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

ウィキペディアから

ミュンヘン [DVD] -
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発覚

1972年9月5日4時40分頃[1]、ミュンヘンオリンピックの選手村に黒い九月のメンバー8名が敷地のフェンスを乗り越えて侵入した。メンバーは、持ち込んだAK-47等の自動小銃や手榴弾などで武装・覆面した上で、午前4時頃に選手村内のイスラエル選手団宿舎へ突入した[2]。この時、彼らがフェンスを乗り越えるのを目撃している警備員がいたが、夜間に外出した選手達が人目を忍んで戻ってきただけだと思い、気に留めなかったという。

犯人グループは上階のイスラエル選手団居住フロアに侵入し、抵抗したユダヤ系アメリカ人選手とレスリングコーチのモシェ・ワインバーグの2名を殺害し、死亡したワインバーグを庭先に放置したのち、9名を人質に取った[2]。なお、この襲撃時に1人は窓から飛び出して脱出しており、彼が一時拘束された中での唯一の生存者である。

午前5時30分頃、警察官がワインバーグの遺体を発見する。その際に立てこもる黒い九月側に気づき、事件が発覚した。黒い九月の占拠部隊は宿舎から2ページの宣言文からなる犯行声明を警察側へ投げ入れ、イスラエルに収監されているパレスチナ人234名(日本赤軍の岡本公三やドイツ国内で収監中のドイツ赤軍幹部も含む)を午前9時までに解放するよう要求した[1]。この事件は、午前6時20分にはテレビの生中継で報道が始まり、事件の最後まで実況中継されることとなる[2]。
交渉

地元警察は、やむを得ず時間稼ぎのため交渉を行なうことにした。午前8時45分頃、ミュンヘン警察本部長はオリンピック関係者2人とともに玄関先で占拠部隊のリーダーと交渉を行い、まだイスラエル当局と協議中であることにし、期限を午後0時にまで延長させた。ただし、解放されなければ人質2人を射殺する条件であった[2]。西ドイツは、事件発覚直後からイスラエルとの交渉を開始していたが、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの要求を拒否するとともに、イスラエル軍部隊による事態解決を西ドイツに打診するが、西ドイツの法律は外国軍の国内での活動を制限していたこともあり、西ドイツ側は自国で対応するとして拒否した(イスラエルの特殊部隊派遣は西ドイツ側に侮辱だとして受け取られてしまうと思ったために、打診すらしなかったという説もある)。

これにより、西ドイツ当局は交渉による解決を一切断念することに追い込まれ、武力のみの解決を強要されることになった。しかし、この時点では当局側は占拠部隊の正確な人数を把握していなかったため、イスラエルと交渉中であると騙し、何度も期限延長させていた。午後5時頃、当局側はオリンピック関係者を人質の確認と称して宿舎へ潜入させることに成功した。このオリンピック関係者がそのとき見た占拠部隊のメンバーの人数は5人であることから、当局側は5人と断定して突入の準備を行い、地元警察側に突入部隊を編成して突入直前までいったが、テレビやラジオで実況中継されていたため、占拠部隊に気がつかれてしまい中止することになった。その後、交渉が行なわれ、占拠部隊は飛行機でエジプトの首都カイロへ脱出することを要求し、当局はそれに合意した。午後10時ごろ、占拠部隊と人質は宿舎の地下から当局が用意したバスで宿舎から200m離れた草地へ移動、そこから2機のヘリコプターで空港まで行き、その後は用意された飛行機に乗り移って国外に脱出する手筈であった[2]。だがこれは表向きの話で、実際はバスでの移動途中、もしくは空港で犯人グループを狙撃し、人質を解放する計画であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%B3%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 スピルバーグが描く映画ですから描写は迫力ありますし、そのモサドの暗殺部隊がテロ犯人を追い詰める姿にはイスラエル情報機関のモサドの怖さを改めて実感させる映画でもありました。


犯行がパレスチナ人のテロとわかりイスラエルの諜報機関が報復で出るというのですからオリンピック競技大会も「スポーツ大会と政治は別」と単純に行かないことがあるのは昨今のブラジルのRIO大会でもロシアがドーピング問題がありほとんどの選手は出場できませんでした。もちろんドーピングはあってはいけないことですが、ドーピング検査を逃れてでも国威発揚のために勝ちたい国が多々あることも現実の問題として理解しなければなりませんね。
わたしの学び≠フ原点でもある鈴木武樹の著作に『共和国を夢見いる論理』(すずさわ書店)があります。その一節に「オリンピックは《根性》より《欲望》で!」があります。初出は(婦人公論一九七二年三月号)です。
わたしがオリンピック競技大会≠ニ表記するのは鈴木武樹の著書が念頭にあったからです。161頁の引用です。

オリンピック競技大会がまた八年ぶりでまた日本にやってきた──と、こう書くと、読者はおそらく、この表現のどこかにそこはかとない違和感を感じることだろう。そして、やがてはその違和感が「オリンピック競技大会」という言葉のうちにあることに気づくにちがいない。あれは、「オリンピック競技大会」ではなく「オリンピック」なのだと。前者の表現では、個人のわざの競いあいという面に力点が置かれて、あるいは、ありきたりのスポーツ大会といった印象が強くて、ありがたさが足りないと思われるのである。


このことがずっと頭にあるから、わたしは1964年の東京オリンピックも「東京オリンピック競技太会」と思っているわけです。でないと、フラットというか元オリンピックおたくには堪えられない。感じなのです。しかもオリンピック競技大会はピーター・ユベロスが活躍した1984年のロサンゼルス大会によっていわゆるひとつの商業主義≠フ頂点を迎えました。つまり「オリンピック競技大会」はアマチュアリズムからプロが参入する大会に大きく変貌する大会にカジが切られたのです。未だに確かにアマチュアが大きく占める競技もありますがバスケットなどにもMLBのスーパースターが出場するようになりオリンピック競技大会は大きく変貌しました。スポンサーがつかないマイナーな競技も多数存在するのは事実ですが、ゴルフ競技やテニス競技の復活はプロの最高峰の技術をオリンピック競技大会という限られた設定の中で競うのですから、選手にとって名誉以外に得るものは何もありません。中国のホン・シャンシャンという女子ゴルフ選手が銅メダルに輝いたときは正直驚きました。USLPGAで既にメジャー取っている選手ですがまさか銅メダル取るとは思いませんでした。他に強い選手たくさんでていますからね。世の中、確かに動いている以上、そういう動きに適応するのが選手たちの置かれた状況なのでしょうね。テニスの錦織圭選手の活躍も記憶に新しいところでした。もちろん体操の内村航平選手はじめとしたチームやレスリングの選手たちや水泳に加えてわたしの好きな陸上競技での400mリレーのバトンパスの妙味と連携での銀メダル獲得は本当に嬉しいものでした。



奴≠ヘいま、ヤポネシア古代史のおさらいをしている。小説家の黒岩重吾の著作の読み直しや古代史観や松本清張の『謎の源流』のおさらいによる古事記偽書説への認識と日本書紀成立の諸事情にオホド(継体)の倭に入れなかった事情やアメクニオ私ハラキヒロニワの後の欽明天皇の皇子時代の出自名がまぜ日本書紀にも古事記にも書かれてないのか? なぜ、彼は任那の再興を掲げたのかその拝啓にやがて物部守屋と蘇我馬子の連(むらじ)と大臣(おおおみ)との対立『磐船の光芒』(黒岩重吾)描く世界が広がり、日本国家の形成の大化の改新(なかった?)や藤原氏の台頭に壬申の乱の大海人皇子(後の天武)が国家形成に大きく舵を取り藤原宮の本格的宮殿都設営の歴史の「倭」(わ)国から日本国(にほんこく)成立の歴史をこの一年少しずつおさらいしたようですが、その進展の歩は十歩のようだというのが安邑奈美恵の情報網に引っかかってきつつあった。
磐舟の光芒―物部守屋と蘇我馬子〈上〉 (講談社文庫) -
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NBAスーパースター レブロン・ジェームスやステフィン・カリー
も東京オリンピック大会に参戦だとまさにドリームチーム?
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2016年11月17日

天城恋人の電車道U(1)


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 奴≠ェ送ってこない『温人NOTELooseLeaf』に何を書こうとしていたのかに興味あるかどうかということを聞かれると、そんなのLIVEの準備で興味ないと言ったって、実は興味持っちゃうのが怖いもん見たさの人間の性とかいっちゃったらおおげさになっちゃうけど、奴≠ェ一年一年痩せてがに股が広がり目が落ち込み髪の毛が白くなり近藤正臣になろうとしたって所詮土台ちがっちゃっているんだから無理よね。
だけど、温人に人殺しさせない。差別の対象にさせないっていう意志は本当だと思う。温人はさ、たまたまあたしと有名ダンサーの元夫の子どもだから直接的にはそういうことがないかも知れないけど、やっぱり母親としては気になるわね。わたしは勉強不足だから「平和安全法制整備法案」とかの内容には詳しくないけど成立の仕方見たらやはりあんな採決の方法が許されるのかって思っちゃうけど、なんでも南スーダンは大変な紛争地帯で政府の閣僚も逃げ出し、無政府地帯状態で内戦状態っていうじやないの。だから、奴≠ェ送って来た『温人NOTE3』(CHECK MATE)編の内容が気になるのよね。だって、奴≠ヘ温人のボクシングファンにしたいという口実でモハメッド・アリスペシャルのDVDの1、2とマニー・パックマン・パッキャオの『6000万ドルの男』のDVD付録で送ってきているんだよ。わらっちゃうわね。奴≠フやることは、あたしが温人に見せるかどうかわかないのにね。見せないわよって思っちゃったけど男がボクシングに魅せられるのはわからないでもないわね。最近は女性ボクシングも盛んになっちゃっているようだし…本人が音楽やスポーツに関心もつのはいいことだから積極的に協力するのはやぶかさせないけど、そのためにはやはり歴史を勉強することも大切じゃないかっておもちゃうのはあたしも子どものとき貧乏でアクタースクール通うのにバス代節約するために歩いて通った苦労あるから、マニー・パッキャオの貧乏はそれこそ大迫選手じゃないけど「半端ない!」のは確かだよね。


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そのマニーが家族のために小さいときからいろんなもの売ったり漁の手伝いしたりで幼いときにボクシングとであったんでしょう。しかも、生計に役立つってことで、あのフィリピンでは小さな子どものボクシングも闘鶏のように賭けの対象にされるっていうじゃない。実際の闘鶏は文字通り死を闘うので刃物足につけらてっちゃうじゃない。怖いわね。ドッグレースなどは競馬と一緒の射幸心で済むかもしんないけどさ、これは半端ない殺し合いでしょう。沖縄ではショーとしてのハブとマングースの対決とかするけど実際にはマングースが強すぎてハブは威嚇もできないで負けちゃうじゃない。でもハブ酒とかお土産になるからそれはそれでいいけどさ、闘鶏はキツイショーだよね。それを幼いパニー・パッキャオは叔父さんとかに叩き込まれて、裸一貫でマニラに出てプロボクサーの才能を開花させたっていうじゃない。エライとかいうもんじゃないわね。しかも、母国フィリピンの貧困問題の解決のために昨年の5月のティモシー・ブラッドリーとの3度目の対戦に勝ち一度は引退を決意して下院議員からその後上院議員になって多忙な日々を過ごしながらも自分はフィリピン国民のためにも病院建設や貧困対策の政治的解決のために稼いだお金をつぎ込んでいるので、さらにお金も必要もあり、つい最近には復帰してなんとウエルター級のチャンピオンに返り咲いたというじゃないの。ちょっと凄すぎちゃうわね。あたしもホール公演88本というハードなスケジュールでがんばっちゃている最中だけどさ、その練習の様子ちらっと聞いたらさ、山中慎介さんでも、衆議院議員やって現役の世界チャンピオンやるなど考えられないっておっしゃったというじゃないの。なんか話それちゃってるけどさ、あたしはあたしで本来100本やりたかったのよ。でも88本しか組めなかったの。残念だけど長丁場だから健康管理、体調管理も常に万全にしないとだめだからさある意味大きな挑戦でもあるのよね。動員だけが目標ならアリーナが良いわね。でもそれじゃ行けないところが多いでしょう。しかしホールなら北は北海道から南はあたしのふるさとの沖縄コンベンションホールまで行けちゃうじゃない。しかも来年の9月にはデビュー25周年が来ちゃうのよ。感無量じゃない。そういうときに世の中喧騒があまりにも多いのはやっぱり嫌じゃない。しかも、アメリカ大統領にマスコミの予想覆してトランプさんがなったんでしょう。
温人が留学とかしてさ、KKKっていうの白い頭巾の目指しで白人至上主義掲げて黒人やヒスパニック殺してきたんでしょう。巻き込まれた心配じゃない。アメリカじゃなくイギリスの方がいかなって思っちゃうけど…温人がどう考えるかだよね。親は助言できるけど自立させることも大切ですから…あたしは15歳で自立せざるを得ない環境に放り出されていまがあるから、息子にはもう少し学生経験とか勉強はして欲しいとは思っちゃうのは当然よね。どこまで行ってもあたしの息子安邑はついてまわっちゃうんだからさ、重荷にならないようにっていう心配はあるじゃない。安邑奈美恵は舞台化粧の準備の時間のいつもの癖で鏡に向かってこころの様を誰にいうともなくつぶやきながら「ニー!」と得意の笑顔を作って見せた。


      一



奴≠フ温人NOTEの準備はヘルマン・ケステン≠フ『ゲルニカの子どもたち』を話の枕に理不尽な戦争に巻き込まれカルロス少年≠フ視点を温人くんに届けながらフランコの横暴に加えてそれを支えるナチスの恐怖におののくゲルニカの子どもたち≠一緒に学びました。それをいきなり第二次世界大戦や沖縄の地上戦の日米決戦の話などにあえてしなかったのは奴≠フ配慮ともいえる。奴≠ヘ説教くさいこともいうけど、自分にも問うというか、学びながら温人がもし興味持てば、その話を広げるということをやろうとしているのかも知れないわね。
だから多分「一緒にゲルニカの子どもたちを学びました」とか書いちゃっていることは予想できちゃうわね。

その日の夕がた、パブロおじさんと父がはじめて言いあらそいをしました。そのまえの週に、サン・セバスチアーン が無血で、反乱軍の指導者べオルレギの手に落ちていました。三千人の人たちが、モール人を怖がって逃げ出しました。どんな軍隊が来てもこの長い鼻で突き落としてやる。とでもいうみたいに。そうしてこの人は父が口にする名まえの一つ一つに、低い声で渾名(あだな)をつけていました。父がモール人と言うと、この父の友だちは血にうえた犬め、言いました。カルロス党 は坊主やろう。兄弟党は、ファシストのげすやろう。義勇団は人殺し小僧などといったぐあいで、こんなふうにしてこのリストを、ならず者、教会ではどろぼう、嘘とずっと続けました。

(ヘルマン・ケステン 鈴木武樹訳74〜75頁)


奴≠ヘ実は『マルカムX』自伝(浜本武生訳)河出書房)をつけつけてきちゃったのね。

黒人社会のどん底で、ハスラー、ポン引き、強盗、麻薬常習者とアメリカの悪を一身に背負ったマルカムXが刑務所で自己の価値に目ざめ、ついに(ブラック・パワー)の思想を説きつつ、1965年2月21日に黒人ゲットーの壇上で銃殺までの稀有の自伝!

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2016年11月04日

続々熊紋美子モデル大好きの景色(その1)

主催:ストップ!TPP緊急行動・関西連絡先最近、築地市場豊洲移転問題がエライことになってまんな。関西人にはわかりにいくいことですが、とにもかくにも建屋の下に食の安全のために盛土する話がいつも間にか、空間になっていてしかも、地下水が出ている。その地下水から水銀が出たとかで話題になったかと思うと、今度はその地下水がポンプが稼働してもなくならない。

玉砕 -
玉砕 -
こんなはずではないとというところに加えて、環状8号線の工事が地下トンネルでストップしている。暫定的には迂回道路が旧築地市場の建物を縫って仮設道路が造られているが、この道路を先汐橋につなぐと、渋滞がさらに起るという話になり、その仮設道路は一車線しかないこともあり、オリンピックまでに築地市場豊洲移転問題を解決しないと。糞詰まりになるというのだ。

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「よっちゃん、東京っていうところは金持ちでっから派手に予算使いまくりまんな。オリンピックのメイン会場の国立競技場をぶっ壊したときから、とんでもな話満載でんな」

「ところで、最近YouTubeで米朝師匠や枝雀師匠の落語改めてバックミュージックのように聴いて粗大ゴミ出すために本棚一部ネジ外して本もついでにたくさんゴミにだしてまんねんけども、本んって重たいだけで漬けもん石にもならないもんようけおまんな。大夫放ったけどまだまだでんねん。そやのに宮沢賢治の文庫本8冊組がなぜか2冊ありまへんへんねん。おかしな話ですわ。新刊本の最近買った本もどこいったか不明なやつあるし、めんどうくさいことですわ。本って重たいから大淀町は出しにくいんやね。相模原なんか燃えるゴミで市販のゴミ袋で簡単に出せたのにね。再生紙にもならんしね。週刊ジャンプならなるやろうけどね」

「そうでっか。いつちゃん。断捨離したらよろしおすやろ。なんでも捨てまんねん。捨てるのにゴミ袋たくさにるけど税金やとおもたらよろし。それでまた必要な新刊本買ったらよろしいでっしゃろ」「

「でも、銀河鉄道の鉛筆はいりまっせ!」CtWCybPUEAAoyjL.jpg

「おおきに。そんなんいうてもらったらうれしおまっけど、うちはもう鉛筆ちびっておまへんで!」

「そんなてんごいわんといてくんなまし。それでのうても夏の躁状態から鬱期にはいろうとしてまんのに…新しい束見本でてきたから今度こそ、この本に新小説を清書しようと思ってまんねんけど、まだ片付け終わってまへんねん」


「それはごくろうさんなことでっけど、うちもすずらん本屋堂のときほど忙しいことはおまへんけどなんやかや必要とされまっからな。クイズ女王、知の女王としては看板女優でっしゃろ。ありがたく出させていただいてまっから、結構イソガシおまっせ」

「よっちゃんが知の女王やいうのは誰も比定しまへんやろ。AKB48が束になってかかってもそんなもんあきまへんわな。若い子だけ頼りと、歪きまっからな。突然はなし変わりまっけど鶴瓶師匠の凄いところはそういう連中とも積極的に絡むところでんな。あれは鶴瓶師匠の得意芸でっしゃろ。あれは凄いと思うは」

「そうでっしゃろな。六代目松鶴の弟子でっからね。はみ出てもちゃんと収めるとこ収めてまっさかいな。落語は江戸だけやない。しかしあえて、東京に出てタモさんの提供した資料勉強して吉原題材の「山名屋浦里」はなんと歌舞伎にまでなった。故勘三郎さんも喜んでまっしゃろ!」

「勘九郎さんがもうしでまっしゃんやろ。喜んでまっしゃろな。その独演会の日程に弟子とのふたり会までやってまんねんで。行きたい落語会いっぱいありまっけど引っ越しとかで金欠もありいまは我慢ですわ。セレッソ大阪は相変わらず本拠で勝てないし、死に水取る覚悟で清水戦観戦しているから当分は行きまへん」

「いっちゃんは我慢強いからそおうしはったらよろし。うちはなんもいいまへん。うちはうちのペースでやりまっから…」

「よっちゃんのマイペースはわかってまっさかい、そこはなんもいうてまへんがな。そこでごちゃごちゃ言われたらいやなんはお互いさまでっから、それは銀河鉄道の鉛筆チビリ過ぎてたとえなくなったとしても、崇徳院の旦那ちゃいまんねんからしょんぼりするけども、そんなもんは年末にクラブ・ワールドカップ決勝でイスコやクリスチアーノ・ロナウドのGOALシーン見たら吹っ飛びますわ」

「いっちゃんはリーガ・エスパニョーラ好きなのは知ってまっけどうちはそこまで無理に付き合いまへんで」

「わかってる。そんなもんまで付き合ってくれたらVEGAさんに出会えまへんがな?」

「いっちゃん、どさくさにまぎれていま、何言うたん。そこがあむろっちならま、しゃないか、筆記ちゃんならま、ファンやからいいかってなりまっけどね。そこにVEGAさん出て来るのはうちもちょっと気になりまっからアキマヘン!」

「すびまぜんね! たよ! なんちゃんって」


いや、与太話でも書いていないと中断している小説が書けまへんねん。桂文鹿さんの独演会や高田の片塩寄席も気になるし明日のデモも11月5日の大淀のあらかしホール「吉野宮」の講演会も気になる。キトラの壁画は申し込み遅れて来年になりそうやし、次の日はマニー・パッキャオのボクシング生中継もあるから、思案六歩やけど、地元の教育委員会の方もパネルディスカッションに出られるというので興味ある。歩いて行けるのがいいです。その一方で、TPPの強行採決がされそうだというし高江のヘリパッドの強行工事はやんばるの森の破壊だけではなく、北部の東村をはじめとした集落を標的とした米軍訓練地として恒常化されるのは普天間基地辺野古移転とおんなじことですわな。困ったもんですわ。

あの講和条約以来、日米安保がそんなに大切なら本土基地で厚木の米陸軍と自衛隊の一体化を沖縄で完成させるということになりますわな。やがて日本国中にオスプレイが飛ぶ姿は低空飛行できるから悲惨ことにななりまっせ。相模原のアパートから逃げ出したのは突然政府代理人という元東電の社長がわけのわからん書類に判子押さされそうになったからでっせ。あそこでもジェット機やヘリコプターの騒音で話できまへんねんで。それが沖縄普天間や高江では日常ですわな。しかも、危険が伴う。

厚木のことは民進党の後藤祐一議員も神奈川16区地元やからよく知っているはずなのに、大丈夫でっかな。民進党の野田首相が安倍の挑発に乗って解散総選挙で議席減らし続けてさらに連合の貴族と組んで補選でも2敗の幹事長になり、転けまくる獅子身中の虫状態ですからな。どもしょうおまへん。

それで自衛隊が国連PKOスーダン派遣まで来てまっしゃろ。しかし、稲田などは自分の身内は行かせないってことでっしゃろ。もう、むちゃっくちゃな論理ですわな。

「いっちゃん。なにぶつぶつ独り言いってんのん」

「あ、そうやったな。実は粗大ゴミ処理やって断捨離ほとんど進んで、昨年の大切にしていた新聞のスクラップ探してまってんけど、なんと捨てたと思うていたのに、くしゃくしゃになって残ってきたんや!」

「そうでっか。それはよろしおました。しかし、その記事のスクラップって何が大切なんやのん?」

「これやねん。2007年7月14日と15日の小田実さんの遺言のようなインタビュー記事ですわ」

「なにかいてまんねん。殺される側≠ノ立って見る。やて。なんかあんたがようよう読んでいた本多勝一の本におましたな、『殺される側の論理』でしたかな」

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「それやがな。末期癌で大変時期やのにね、こんなこと言ってまんねんで」


*デモや集会には行けないから、今できることは、作家としてできるだけたくさん書くこと。三か月生きられたらいい。六か月生きたれたらもっといい。70年代に出した「世直しの倫理と論理」を、もういっぺん新しく書きたい。」トラブゾンの猫」という、面白いおとぎ話みたいな小説を書きたい。九か月生きたらバンザイ。一年生きたらもっとバンザイ。何を書くかは、またそのときを考える。


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「こんな風にいってましたんや!」


(この項続く)
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