2018年03月30日

銀河鉄道の鉛筆U

数詞 一




試合前から「今日は勝ちます」と館山顕示は力強く宣言して年間指定席NET裏の16段53番の席に座り早速手右手にビールを持っていた。中肉中背で頭髪の毛もたっぷりあったが白髪が目立っても気にするそぶりはなくいつもオールバックにして清潔にしていた。大きな黒縁眼鏡も数十年来の定番で流行に左右されることはなかった。趣味でアマチュア野球の審判をやるだけに、関西のウルトラQ球団ファンの生き字引的存在で、周囲も認知しており、館山顕示のふるさと兵庫県宍栗郡山崎でもウルトラQ球団の選手と交流してきた自負があるファン歴六十二年目を数えた日、二連敗後の宿敵ジャイアンツ戦を迎えて、隣の知人に断言していたのだ。

「三連敗など考えられませんよ!」

と息子ほど年下の知人も応え一度は館山顕示の前から姿を消していた。試合は館山顕示の予想通り二回裏にいきなりKのすっぽぬけスライダーをハイアットがツゥーラン本塁打するという幸運もあり先制した。そのとき館山顕示は七〇歳を越えているいるというのにハイアットの奥さんみつけて抱きついていた。酒が進みごきげんだった姿が知人にも想像できた。社交的で誰彼にも話かけ気が合えば話し込むが徒党を組むという習慣ななく、元教師としての風情が心底にあった。

 Yが投げJがリードするウルトラQは完封勝ちした。知人がベンチ通路に降り、ふりかえった館山顕示の16段53番の席のボックス席の笑顔を見て

「やあ!」

といったのが館山顕示を見た甲子園球場での最後になった。

 館山顕示は阪神電車で甲子園駅から今津にでて阪急宝塚線に乗り換え小林が自宅への最寄り駅だったが、勝ったときは酒好きでビールから日本酒になり今津のウルトラQ球団ファンが集まる小料理屋の熊紋≠訪ねるのが常だった。熊紋≠フ女将はバツイチという噂で余程のことがない限り身の上話などしない性分だったがプロ野球好きウルトラQ球団ファンがこうじて、気がつけば今津で小料理屋の女将になっていた。館山顕示も認める女優M似であり一見どこにでもいそうでその個性を探すとなると気がつけば熊紋≠ニいう感じで男が好みよってくる。アラフォーになろうかという7のに童女の可愛さがあり、野球の話に興じると推理作家のように理詰めで投手心理を語り、打者心理を独自感覚で説明したりするものだから、まさにウルトラQファンのマドンナだった。

 館山顕示は例によって、

「女将さん、いや熊モンさん。あのKの投球どう思いました。スライダーのまがり悪かったんちゃいます。まさにハイアット・リージェンシーどうぞよろしくでおましわな」

「そうだすな。たまにはK投手も抜けスラ投げてもらわんと、甲子園球場で宿敵ジャイアンツに三連敗はキツイでっからな。あそこはインハイ放られたら詰まってファウルか空振りで追い込んで、外のスライダーで良かったんでっけど、間違い起こしてくれた。さすがK投手は右肘靭帯の怪我からの復帰とはいえ、うろ野球界全体のことを考えて投じたんとちゃいますか?」

 女将は館山顕示のごきげんな姿に冗談も交えて話を弾ませようとしたが、

「女将! いや熊モン≠ヘん、そのいいまわしはちょっとアカン! のとちゃいまっか。なんか手抜きしたように取られたらまずいでしょう」
DCr2-acUMAYB9WT.jpg
「そうだした。すんまへん。うちも三連敗逃れて余計なこといって申し訳ない。舘さん、わてのおごりで一杯サービスしますよって、舘はん機嫌なおして飲んでおくれやす」と女将は弥勒菩薩半跏思惟像の笑みで熱燗をさしだし、館山顕示の猪口についでみせた。如才ない仕草で舘さん≠ゥら舘はん≠ノ呼び名を変える呼吸絶妙。

「おおきに。ありがとさん」いや、女将にそんな親切されるとまた酒が進みまんな。今日は開幕の宿敵ジャイアンツを甲子園で三連敗阻止したお祝いの日でっからな、あのKをやっつけよっさんの三度返り咲きの祝い酒の日でもありますわな。熊モンはんにそんな酒ついでもらったら冥土の土産になりまんな。女将なんか後光さしてまっせ!」
CxhtZ8WW8AAOFdx.jpg thumb.jpg

阪急宝塚線の終電車はすでになく館山顕示はM似の女将熊紋の菩薩の笑顔を思い描きながら、よっさんの三度目の監督復帰祝福できた一日をたどっていた。タクシーを拾って自宅に戻ることも祝福の日は仲間も多くいつものことではあったが、今日というか日はすでに変わっていたが女将と試合後の野球談義の楽しさを味わい小林へは慣れた道とはいえ、酔っ払っていたために、少しはタクシー運転手を手こずらせたようで、自宅前ではなく少し手前で降ろされたようだ。


酒をのんでいるのはたのしいことだ。

すべての善良な心をもつひとびとのために、

酒場の卓はみがかれている、

酒場の女たちの愛らしく見えることは、

どんなに君たちの心正直にし、

君たちの良心をはつきりさせるが、

すでにさくらの咲くころとなり

わがよき心の友等は、多くの街頭酒場にあつまる。

Crrbg6nUIAAYe9s.jpg
 館山顕示は小学校の教師をやり詩も詠くし、なぜか知人に萩原朔太郎の一節を披露したことがあった。

「酒場にあつまる
─春のうた─
萩原朔太郎」

 この夜もこの詩がふさわしく熊紋≠ノウルトラQ球団ファンつどい「心を正直にし」祝い酒に酔い、
「すでにさくらの咲くころとなり」一九九七年の甲子園球場本拠地の宴も始まったのだ。館山顕示にとってネット裏のボックス席を確保して以来、十数年続いた儀式が終り自宅付近で倒れていたのだ。通りがかりのタクシーが気づき救急車を呼んだときには既に死んでいた。
 館山顕示の自宅は小林、仁川と続く阪急宝塚線沿いの住宅街にある。仁川を挟んで両岸の丘陵地は開発され濃い緑に見えるところはゴルフ場であり、仁川にはあの阪神競馬場があり、春競馬の桜花賞が行われるころ、甲子園球場では選抜高校野球の球児たちが去り、ウルトラQ球団が本拠地での開幕試合を始めるという趣向なのだ。


 二○一五年CSつまりクライマックス・シリーズという面妖な仕組みが採用されていることで、五割を切るという敗残チームが下剋上という名の勝ち上がり趣向により各球団の各球場の観客動員は優勝チームが決まっても閑古鳥が鳴く球場風景が一掃され、それなりに喜ばしいプロ野球界ということになり、いわゆる消化試合が減ったことは喜ばしいということだったが、この年のセ・リーグのように結局三位チームが五割の勝率も維持できないという場合は、CSの出場資格がなくなるべきだという意見が多く寄せられている。館山顕示その点、プロ野球ファンとしてウルトラQ球団ファン歴六十年の猛者だけに自分のプロ野球ファンとしての行動は群れることもなく


作者の数詞一はなぜか、ここまで銀河鉄道の鉛筆Uにしるしたところで、中断していた。その中断の趣向以後の再開については、くまモン美子モデルに対抗するというか対立するというか、数詞一の直近の読書傾向に大きく影響させた安佐木夢見史モデルの登場で、実に複雑怪奇とも言える展開になっていることは、最近アップされているブログを散見するだけでも読み取れる違いない。

作者はプロ野球球団誌の編集者の過去があり、狗HK女子アナの珠玉の人気アナウンサーのUさんには少なからず思い入れがあった。彼女が若きころ土日のスポーツニュース担当アナウンサーのときに球団誌はすでに20周年記念誌や100号記念誌を発行する企画があった。Uアナウンサーは球団事務所からの以来とはいえ、その記念誌に最上のこころを込めた賛辞を寄稿してくれていたのだ。あのUアナウンサーは最近亡くなったH監督が解説キャスターとして登場したときでも、おくすることなくHに突っ込む姿絶妙で頼もしく思ったものだ。
昨年九月半ば作者は沖縄にいた。表向きはあむろっちこと安室奈美恵25周年公演に参戦するためだったのだが、その他に斎場御嶽や美ら海水族館や辺野古や高江の姿も見ておきたかった。その際の細かいいきさつは、またの機会つまり安室奈美恵引退興業となる公演が終わってから記述することになりそうだが、そこで作者数詞一が首里城見学の帰りに目ざとく見つけていた沖縄と中国料理の融合をうたう看板にひきつけられ、そこで夕食を食べていた。奴≠ニいう言葉をつけ加えるとそこには奴≠ェでてくる安邑奈美恵の主人公が観察する奴≠フ言動が明らかになる気配だが、まずは奴≠ェ食べた沖縄料理と中国料理の融合した飲茶料理の内容ということになるのだが、そこはこの物語ではふれることではない。
しかし奴≠ェオリオンビールを中ジョッキ2杯飲み酔っ払っていたのは確かで、奴≠ヘ沖縄モノレールの那覇で那覇国際通りに行く宿泊地の牧志で逆方向にあるき出すという具合だった。そこで気づかず酔をさまずためにドラッグストアにつられて、水が欲しくなち入った。なんとそこでUアナウンサーそっくりさん に出会った。なぜ気づいたかというと、そこで奴≠ヘいつものクセでなんでもクレジットカードをだす習慣があるからだった。その店員さんがどういうタイミングで現れたのかを知るよしもない。奴≠ヘ酔っていてUアナウンサーかどうか、わかるのはクレジットカードを奴≠ェだしたためにその店員さんが新人でまだ、決済方法の打ち合わせができていなかったからだ。
「ちょっとおまちください!」
ていねいな応対に急ぎの用事は何もない奴≠ヘUアナウンサー似の顔を見つめてはいたが、まさかとは思い分かる人の来るのをまった。その分、奴≠フ経験豊富な体験? は頭がぐるぐる周りまた酔がまわったのかも知れなかった。
「すいません。おまたせしました」その程度の言葉を聞いただけだ。しかし、奴♀m信もったね。沖縄から帰宅後あの「あさイチ!」の人気番組を見たからだった。


奴≠ヘ沖縄に来てからその次の日に宜野湾での安室奈美恵25周年記念公演に参戦の前にレンタカーを予約していたので借りる予定だったのがそこでもいわゆるひとつのエピソードがあり、あの有名ゴルファーが登場したりして頭の中が混乱して路線バスの旅をしいられることになるのだが、それも別の物語の脈絡で奴≠ヘ書くだろうというのは、この物語の熊紋美子モデルは理会している(理会は誤植ではない。奴≠ェ竹中労の文章から学んだ表示だ)。

posted by torayosa at 10:34| 兵庫 ☁| 自伝的実録風小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

白い本の充填恋文の形$V構想小説のブログ無料公開シリーズ(その3)

いつでも雨が降れば花が咲く
ベガ原型.jpg
いちご白書をもう一度(その3)

(この後 奴≠ヘその後の30年何も変わっていない凡人ぶりに邂逅する。)
あとは発表しません。奴≠ニ市川寛子モデルの部我路奈の『二人の世界』だ。http://torayosa03.seesaa.net/article/405709305.html
 奴≠ヘ自分のブログに新構想小説の経過を少し無料公開してまた自分の人生を生きるための作業に没頭しだした。

SN3J0020 (800x551).jpg



 黄金週間に帰阪してからは、何やかや口実をつけて針中野からひと駅なので歩いても行ける今川支局へ出入りしていた。愛ちゃんと同期生で、ケガをして演劇を諦めた義気大吉という若い映画監督志望の青年とは気が合い、わざわざ遠い針中野温泉のいまでいうスーパー銭湯まで誘ったり、ときにはその途中にあるスナックに同伴させることもあり、後にその行動はわらべ座の集団活動を乱すということで物議をかもしたものだった。
義気大吉は喫茶店でのバイト経験があり調理師免許は持っていないのに料理の才能は抜群だった。わらべ座の既婚女性も一目置く腕前で、みんなで食事するときの盛りつけも鮮やかで驚かされたものだった。
「義気クンはなぜわらべ座に入ったの?」
「親父が映画関係の制作やっているんで演劇にも関心があったんです。ほんとうは映画助手の仕事したかったんですが、高卒だし、受験に失敗して、進路どうしようか迷ってたんですよ。そんなときに、わらべ座を知り、深く考えないで応募したら採用されたんですよ!」
「じゃ、演技はできなかったんですか。歌も愛ちゃんなどのように素養なかったし、ついてゆくの大変でした。運動神経には自信あったんですけど、ケガしちゃってね。舞台は諦めざるををえなくなっちゃってね。ひと足さきにオルグ助手などしているうちに、今川支局応援に回されちゃったんですよ。でも忙しいけど、楽しいですよ。ボクは料理得意ですから、みんなに一目置かれているから、それもやり甲斐です。一さん今度、今川支局へ食事に来てくださいよ。大したことできないかもしれませんが、後援会歓迎会とでもいう口実で、ちょっとした料理やっちゃいますから……}
 義気は鼻が高くとがり、目は細く顎が強い意志を感じさせるマイケル・ダグラスのようで、左右センター分け気味の当時流行りの肩まである長髪で、上半身の大胸筋と肩幅がガッチリしており、足はバスケットをやっていたというので細くてしなやかで背も一七五センチぐらいあるアスリート体形だった。
そういう若い意気投合した友もいたので、一は今川支局に出入りしていた。

《五月二十日(木)晴れ》一が記しているのは、わらべ座オルグたちの目まぐるしい人の流通≠ニもいえる光景だった。

《イトちゃん、もりちゃん、メグちゃんと入れ替わりによしえさんが来た。わらべ祭り参加以後、帰ってからの入りびたりだったの毎日だが、数えてみれば支局へ立ち寄らなかった日の方が少ないにちがいない。
 今日は先に述べたようなわけで、ささやかなパーティが行なわれた。よしえさんとは初対面だったが、『月刊わらべ』誌上の対談で写真を見たことがあったので、ボクの方は初めてという感じはしなかった。想像以上に素敵なひとだ。こんなひとたちと楽しく交流しながら、座の精神と幅広い知識を身につけることができるのなら、こんなにうれしいことはない(略)》


月末には九州の若松公演に行き、機関誌にレポートを書いた背景にはこういう日常があったのだ。
そして沖縄文工隊に参加している愛ちゃんとの手紙のやりとり、羽田空港への出迎え、さらに、愛ちゃんが、
「ねぇ! 一さん! わらべ座に来ない?」
このひとことでわらべ座再訪が実現したこと。座の日常、勉強風景をメモしその模様を同時代の自分の一コマを書かざるを得ないこと.そして、昨夏の三十五年ぶりの田沢湖芸術村ことわらべ座再訪での失望と、愛ちゃんがすでにわらべ座を辞めているどころか今川支局はもちろん、豊中の大阪わらべ会館などで知り合った座員たちがすべて退団しており。バルブ弾けた以後のわらべ座の経営が根本的揺らいでいることにショックを受けた。角館で出会った女優人力車夫(婦)の相模原某所での大歓迎に応えて、『藍愛紀行』小説を認めたことなど――。また、愛ちゃんとの手紙交換の秘密文書も届いているか不安になり、自分の物語に組み込んできた。この『藍愛紀行』に記したことが起こらなかったら、愛ちゃんと一とはもっといい関係になれたハズだった。

《愛ちゃんがヒデちゃんらに「ねえねえちょっと聞いて、この人バスの中で高橋英夫ってと言ったので、ヒデちゃんのファンになったのかと思ったら、その一派の愛ちゃんのファンになる、っていったの」と素直によろこんでくれて私自身本当に楽しい気分だった。》

 こういう愛ちゃんの率直な反応がなかったら「あい・み後援会」を組織し機関紙まで作ってしまい、その一の行動力に目をつけた原太郎に「座に来ないかねぇ!」と声もかけられることがなかったであろう。
夏のわらべまつりに行くかどうか一は迷っていた。一の事務所に突然愛ちゃんの父親が訪ねてきた以上、それは終局への短い夏の梅雨入りとなり、晴れることのない雨雲に光が遮られた本格的な雨また雨の日々、ロッキード疑獄の問題やスリーマイル島の原発事故報道のニュースなどを肌というか皮膚感覚ではわかっていたが、そこまで気を回す余裕が一にはなかった。わらべ座に関わっている限り、母と衝突することもない。お互いがマイペースで日常をやり過ごせばよかった。しかし、冷静になって考えると、母を置いて座になど行けるハズがなかった。七月五日(日)晴れた日に一は悶々とした気持ちを拙い散文詩にしようと記した。

他人が何を言っても
ボクはボクはただ祈る
あなたに美しい太陽に
唯物論者のあなたには
ボクが恋占い≠信じ
ときにはおみくじを信じる
ことを不満だろう
だけどお願いだ
少しはよろこびを与えてほしい
ボクに親切であってほしい
愛をわけてください
ボクの燃えるこころ′ゥていたのなら
自慢の純青な空にこだまするソプラノで
歌を唄っておくれ
わらべ座のおとめの中の一等美しい太陽
太陽の下の一等美しいわらべ座のおとめ》

 一はさらにハイネの詩を記した。

《僕は長いこと頭を悩まして考えた
日夜、深慮熟考して
けれどもおまえの愛する価値あるまなこは
僕に決心をなさしめた

いまや僕はおまえの眼の照らすところにとどまる
そのこころよさ賢明な光の中に――
も一度、こい≠キるなどとは
決して考えなかったのに

恋人よ!
深紅の薔薇の花言葉を知っているだろう
「わあ! ビロードのように美しい」
「傷つけないでね。こんなに可愛いのに――」そういった恋人よ
その薔薇には僕の想いが
あるんだ》

 一は自分の幼さと稚拙な表現が恥ずかしい。しかし、恋はそういう想いにさせるから恋なのだ。一は中学時代の恩師の大牧先生に会いいろいろなことを相談してもいた。雨は降り止まない。一は恩師が高校生の息子がいるタクシー会社の課長と結婚していることを年賀状のやりとりで知っていた。母となり、教師として自立している恩師だったが、サラリーマンの中間管理職が大変な仕事であることを語っていたものだ。それでも一は夏のわらべまつりに行った。未練があったからだ。八月十日から十七日の日記はその心境をすべて語っていた。

《愛ちゃんにことばかり想っている。
わらべまつりに参加しなかった方が良かった
のだろうか。彼女はすごく儀礼的にしかあいさつしてくれなかったたし、ボクの姿を見つけても声をかけてくれることもなかった。あの六月のハプニングを東京わらべ会館までにとどめていたら、こんなことにならなかっただろう。――わらべ座に滞在中そんな想いばかり頭の片隅にあり忘れるよう乗り越えようと思って、民舞教室で愛する愛ちゃんの姿を見つけて、目の前にして、自分の想いのたけを述べたいという衝動に何度もかられながらも、一生懸命民謡を踊ることを学ぶことによって、その衝動を避けることに努めた。(略)》

 一はいつの間にか座に入るための面接試験を受けているようなことになったことに本当に戸惑った。そんな簡単に行けないのは、愛ちゃんが拒否している以上、当然だったのだ。
ところで一九七六年はどういう年だったのだろう。週刊ピーナツを定期購読し、ロッキード事件について関心を持っていた。創刊号のタイトルを見ると、

「政府がらみの大庭追放劇
輸銀投資が切り開いた
全日空トライスター導入」


 の大きな文字が踊っていた。編集発行は「ロッキード問題共同市民デスク」で、三月二十七日付けで第一号が発に刊された。二面には賛同者を得ての共同声明が載り「私たちはロッキード汚職の政治責任をあくまでも追及する政財界・構造汚職のすべての責任者を追放せよ」と題した戦後日本の支配構造がもたらした「構造汚職」であり、児玉誉士夫や岸信介のA級戦犯が鳩山一郎・自由党の創立資金を提供した児玉誉士夫をまずは名指しで取り上げ、田中角栄金脈や小佐野賢治の「軍治省嘱託」の肩書による、日韓をまたにかけたバス航空機利権を追及、それに関わる大手商社の丸紅、三井、三菱をしのぐ勢力になった構図は、

《戦争犯罪人、戦時利得者、死の商人の黒い腐れ縁であり、日米安保体制下にアメリカの産軍複合体制下にアメリカの産軍複合体に従属する「安保汚職」ともよべるだろう》と声明を発表し、児玉誉士夫だけをスケープゴートにすることはないと訴えており、

《政界では岸、田中だけが腐敗汚職の元凶ではなく、椎名悦三郎、福田赳夫、大平正芳、中曽根康弘、三木武夫らも同じ構造の中にいる。商社では三井・三菱グループが丸紅を蹴落として、軍用機をふくむ兵器の国産化・輸出をたくらみ、右翼では「勝共連合」と深い関係をもつもうひとりの国際的黒幕笹川良一が、児玉を葬り去って地下帝国の支配権をにぎろうとする動向も、私たちはけっしてみのがさないだろう。》

《ピーナツ・バージ¢謌齊气潟Xト》には多くの政治家・官僚が名を連ねており、裾野の広さを一も実践しており、市民運動の集会などがあると、とき折り顔を出したりしていた。
 二号では「なぜ岸か」追跡特集が組まれた。《戦後保守濁流の大ボスと
「高官稼業のからくり》

を図表を使って追及していた。リード文を読むとそのカラクリが読み解けるしかけになっていた。

《ロッキード事件は政府がからんだ大芝居だ。いま黒いカラクリの奥で、めまぐるしく黒幕再編の動き。カギを握るのは保守濁流の大ボス=岸信介。岸の利権のカラクリを解明していくと、そこには高官商法の巨大な姿があがってくる。》というわけだった。この特集の秀逸なのは、岸信介の利権構造を60年安保時代にさかのぼり、高官商法≠フ源流を要領よく書いていることだ。
《「岸」というのは〈川の堤〉という意味で、日本人の間では彼のこと〈両岸〉という。川の両方の堤両足をかけているという意味≠セ。六○年安保のさなか、六○年一月二十五日付け『タイム』誌(米)の特集は、こういう書き出しで始まる。その通り〈両岸〉=ふたまたにかけての利権操縦が、今もかわらぬ岸の本領なのだ。
 岸とロッキードのかかわりは十八年前にさかのぼる。五七年二月、岸が首相になると同時に、次期戦闘機問題で防衛庁は、在日米軍顧問とロッキードF一○四の採用で合意した。そこで競争相手のグラマン=伊藤忠側は、ただちに岸ら政府・自民党首脳に、一機につき一万八千ドル、総額八百四十万ドルの献金を約束、一部を前渡ししたため。機種内定は一転してグラマンに変わった。
驚きあわてたのはロッキード=丸紅である。児玉機関を使ってグラマン派を上回るカネをまき、再び内定をくつがえしてからもロッキードに落ち着かせた、そういういきさつがある。》


一は岸信介を産軍複合体の利権にどっぷり漬った日米韓の「構造汚職」の典型として理解していた。従って、昨年、元防衛大学の先生で外交官の情報部長だったMU氏の『戦後史の正体』を全面的に受け入れるわけではなかった。しかし、日米軍事同盟関連の本には中道保守の立場からでも氏の講演などからは学ぶことも多くあった。ロッキードについてはわらべ座でもパロディ演劇やミュージカルに取り入れいたので、当然話題になっていた。


   



「一さんはどういうきっかけで社会的目覚めというか、社会の動きに関心を持つようになっちゃったの」と仲良しになったキヨちゃんとは良く話をした。一はキヨちゃんが子どもがあり、わらべ座でオルグの仕事をするようになり、座に彼氏がいることも聞いていた。精力的に働き使命感に燃え、表情が豊かで丸顔が初めての相手にも安心感を与え、今川支局にいるときは義気クンと同じようにさまざまな話をした。その中に必然のようにロッキード問題も話題になった。一は『週刊ピーナツ』紙や毎朝新聞記者の陀羅尼勝一の影響を受けていたので、、受け売りの発言をよくした。ベトナム戦争のときは米平連≠フ尾野稔の活動やデモにも刺激受けていたが、この問題については、キヨちゃんや義気クン相手に今川支局の二階の部屋でお茶を飲みながら良く語った。一の頭にあったのは集会などでも常に話題になった陀羅尼勝一の麦とロッキード≠フ視点だった。
 一はキヨちゃんの丸顔の大きな目を見つめながら、
「ボクはね、日本人はすぐ踊らされる≠ニか、世の中ロッキードだけじゃない≠ニいわれているようだけどね、これは陀羅尼助勝一がいうまでもなく騒がないとだめやと思うんですわ。わらべ座でも文工隊にも取り上げているようだけど、当然ちゃいまんのん。ベトナム戦争以上に重大という陀羅尼勝一の意見に同調しますね。ぼくらは政商とか高官とかいわれても『週刊ピーナツ』とか新聞記事をしっかり読まないと、何が本質的なもんだい≠ネんかわからへん。田中が悪い。岸が悪い。小佐野が悪い。だけじゃ何も変わらないんちゃうのん。『週刊ピーナツ』の創刊号に載ったピーナツ・リスト≠セけでも100人ぐらいの名前がスグにあがっているんやから、単なる汚職事件ではないでしょう。キヨちゃんらはアカハタ報道が中心やけど、どんな感じやのん」
「そうね。わたしらオルグで公演組む責任あるから、こういう構造汚職が、自分たちの暮らしにどう影響するのかはなしちゃうのが大切になっちゃうんでしょうね。税金が産軍複合体の構造のなかで、知らないところで使われているんですからね。相手見て話するしかないわね。いきなり大上段からの話は、反発される例もあるから、相手見て話するしかないわね。でも、一さん、結構勉強しているんですね」
「いま、勉強などはやってません。ただ何が起こっているのかに興味があるだけですよ。陀羅尼勝一は新聞記者なのに、マスコミは本質的な報道ををしていないとかいってますよ。つまり構造汚職≠窿純Cロの問題に限定してはダメやということです。彼がいうのは、《問題の本質は断じて脱税なんかではない。ロッキード事件が示す本質とは、兵器の売り込みによってアメリカ金融資本(コンツェルン)が日本から莫大な利潤を得ていること》つまり、税金を吸血鬼のように搾取しているのが、本質≠セというわけです。こう考えると全日空のトライスターがどうとかあるけど、本命は軍用機の日本への売り込みにあることがわかるといってます」
 一はここまで書きながら維新の石原がヘリテージ財団のアメリカで尖閣諸島購入演説をぶったことを思い出していた。アジアの緊張状態には北朝鮮はテポドン攻撃させなければならないし、中国と緊張関係を作らないとPAC3などという何千億もする対迎撃ミサイル兵器など日本に配備させられない。高価で危険な軍用機のオスプレイの配備を高江ヘリパッドや普天間基地辺野古移設して、やがて日本全国で飛ばすなどできないというわけだ。何か三十五年前と変わってないな。産軍複合体の仕組みが日本産業にも完全に組み入れられ、阿納首相は武器輸出も核の廃棄物処理のリスクもあるのに原発輸出もトップ外交で自慢してやりだした。なんと集団自衛権行使も閣議決定で決めた。馬鹿げた権力志向だが、誰も周りは止めない。止めるような人事構造ははなから排除しているから当然だ。なんとか諮問機関とかつくるが実態はお膳立て、お手盛りの連中ばかりだ。福祉削って防衛費増やして高江のヘリパットつくり、オスプレイの強行配備。アメリカ本土では使えないオスプレイは自衛隊御用達でアメリカ2000の大小企業は売り込みに成功して万々歳さらに、普天間基地の辺野古移転を仲丼知事脅したら早速強行突破! さすがに前回仲井真知事の選対だった那覇市長も事態を無視できずに、敢然と知事選に沖縄の保守の立場からオール沖縄の県民意志を結集して10万票の大差で尾長さんが勝った。ところが仲丼知事は県民を裏切るように工事承認の判子を押して退任した。この状況に大義なき解散総選挙が仕掛けられた。もう、権力を持つ側、それを支える官僚たちの策略はなんでもありだ。しかもテレビ・新聞が完全に大政翼賛会化して、電通・博報堂などと結託して、3S政策(SCREEN・SPORT・SEX)洗脳に余念がない。
集団的自衛権行使のつぎは憲法の改悪だ。数の論理で一気に国民投票に持って行ってしまえ。8%に上げた消費税は来年の四月に景気回復のい効果がでる、デフレ脱却は株価操作と円安誘導で万々歳と、わずか数年前の年末の選挙の公約などなかったことにする。TPPは断固反対やったのに。集団的自衛権行使などは一切なかったのに。小鼠進次郎などは福島で原発再稼働はしないようなフリで愛想ふりまいていたのに、どりる優子にいたってはお飾り第二次安倍政権の目玉にするつもりだったが、政治資金規正法違反が出るわ出るわのさなかなのに、選挙に出る厚顔無恥ぶり。松島も同じ。
選挙が始まると突然、自民党からはアベノミクスの単語がなくなった。単語の絶句というか禁句になった。国民総生産の数字がマイナス1・9とかでたら消費税上げて2パーセント経済上昇させるという黒部日銀バズーカ砲もあぶなっかしい。株の乱高下は一応選挙までは持たすつもりだが、怪しい雲行き。年金基金までぶちこんでいるから、高値運用なら売るに売れない。撃ち込んだカネがでかいから、暴落する。
「春日NOTELoose Leaf」書くべき内容がこの年末の選挙で積み上がった。
DSC_6856.JPG
一が危惧するまでもなく、予想される安普請の青写真をトレースしているからだった。まさに、陀羅尼勝一の麦とロッキード≠フ世界が、TPPという姿で黒船となり日本を呑み込もうとしているのだ。当然、そこにはスリーマイル島事故以来の政府の隠したい事実の原子力利権がある。福島第一原発事故があったにもかかわらず、再稼働宣言したい茂餅経産省などはその典型と感じているのだ。

「ねえ! キヨちゃん。日本国民の税金が、一機百億円もする軍用機を何百機も買うことによって、アメリカの独占資本がもうけるわけですよ。これがアカンやろ。早い話、ロッキードや丸紅はたまたま槍玉に上がっただけで、アメリカの巨大な力の金融資本がトカゲのシッポ切りというわけですよ、だから、わらべ座のおてもやんの替え歌(♪誰がもらった百個のピーナツはっきりさせずにおかりょうか)というのは大事なワイロのひとつでしかないわけですよね」
「そうなのねェ! 確かにとっかかりはワイロや汚職だけど、問題はアメリカの産軍複合資本に兵器買わされることなのね」
「そうですねん。事実、ほとぼり冷めるとアメリカ国防省は五月二七日に日本の対潜システムはP3Cが良いとか言ってきてるんですよ。つまりワイロさわぎの高官を取り除いてしまえば、ラクに賢く商売できるというんやね。キヨちゃん、これアカンでしょう。陀羅尼勝一がいうのはね。これはイギリスが中国の清の時代にアヘンという麻薬で大儲けしたのと同じ構図だと言うわけですよ。つまり、アヘン売るには、アヘン中毒の患者つくらんとアカンから、アヘンが必要とする環境を作る。アヘン戦争直前には四○○万人にのぼったというんです。もちろん清国はアヘン取り締まりをゆるめますわね。国の滅びることになりかねんわけやからね。しかし、イギリスは密輸をやり続ける。実際、わたしは古代史ファンで江上波夫の内モンゴルなどの紀行文読んだことあるけど、中国人も儲けになるからちょっと政府の目が届かないところ行くとケシ栽培が日常的に行われていたようですよ。陀羅尼勝一に戻るとね、イギリスの資本家の目的はアヘンでぼろ儲けするために、つまりあくどい商売をして儲けることだけが目的だから、結果として中国人の廃人が増えた、ということですね。ご存じでしょうけどね」
「本当にこまっちゃうよね。日帝もその片棒担いで、児玉とか岸とか麻薬で儲けていたんでしょう」
「そういうことになりますよね。実際は満州ではケシの栽培はちょっと田舎に行くとあたりまえやったそうですからね。ところで陀羅尼勝一の例えから、自衛隊という名の軍隊について、本質を語っているんですよ。つまりアメリカの軍事産業の資本家にとっては、アヘンなんか問題にならない高価な軍用機や兵器を何百機もドカンと売れる情況を育てる必要があった、というわけですよ。例えば韓国軍はアメリカ傀儡ですから、アメリカの兵器で武装して、将校たちはアメリカで訓練するわけです。しかも韓国軍はベトナムでアメリカのために戦っている。さて、日本ですけどね、いうまでもなく、自衛隊はアメリカのために駐留しているようなものだというのです。その証拠は、自衛隊の特に空軍は、その組織や兵器では決してアメリカにさからうことがができないように育てられているといのです。日本の航空自衛隊の閲覧式は米国空軍そっくりというより、米空軍のマネをしたサイゴン政府軍そっくりだというんですね。P3Cオライオン(対潜哨戒機)などはほとどの部品は自国で補給できないらしんです。ま、空飛ぶコンピュータのようなものらしいんですね。陀羅尼勝一は産軍複合の兵器の例としていまあげていますがもう一方は、麦の方です。これこそ、食料自給という根っこを押さえられていることになるのですから大問題なんですよね。わらべ座も飢饉や一揆の問題を取り上げているけれど、歴史をたどれば、はっきりしていますよね。この今川の辺りでも十五年もさかのぼれば田圃だらけだったんやけど、急速にアパートやマンションが建ちだしました。減反政策と補助金で土地成金が増えミニ開発も増えてますよね。陀羅尼勝一は岩手の例として天明の飢饉(一七八三年)ついて調べて、農民はそのころ、いわゆる五穀のムギ、ヒエ、ソバ、アワ、マメなど雑穀を食べていたそうです。もちろんコメも作ってますが、コメは税金ですから農民は食べません。ゴチソウですからね。この雑穀のなかでもっとも大事なのがヒエだった。ヒエは、ワラが馬の飼料にもなり、糞は肥料にもなるというので、循環農業できる食物だったというわけです。ところが、農業形態が変わって、大阪で木綿産業が流行ると綿作する。絹ブームが来るとクワ作りをする。そうすると穀倉地帯に食べ物が作れなくなったんですね。南関東では?油が盛んになり、大豆を作るようになった。江戸の人々が急増したからですね。そういう背景があって異常気象が来た。餓死もやむを得ない農業政策になったというわけです。ちょっと長いけどいいですか?」
 一はキヨちゃんが退屈しないか心配になり、丸顔色白の目をうかがった。キヨちゃんは、しかし嫌そうではない。
「一さん、面白い話やないの。いいよ。話ちゃって」というので一は嬉しくなり、麦とロッキード≠フ受け売り話を続けた。いつの間にか義気クンは階下の事務室で仕事に戻り、談話室の広間は二人だけになっていたから一は、気楽だった。今川支局はわらべ座員幹部が入座に際して自分の自宅を南大阪への活動拠点にするべく提供したもので、広間にはご先祖の写真などがそのまま掲げられていた。一階は事務所に改築されているが、基本は今川には珍しくない一戸建ての二階家だった。話は一が熱を込めだしたので、キヨちゃんも話の腰を折りたくない配慮してくれたのかも知れないが、一は愛ちゃんと話したかったテーマでもあったので、ぶっつけるようにキヨちゃんに話続けた。
 一は顔が小さい割に目が大きいので、こどものころから猿顔といわれていた瞳を大きく開き、さらに熱を帯びて語り出した。
「わたしら団塊世代の給食にいちばん関係があるんやけどね。民主主義と自由主義の国アメリカは、自分の国で余ったコムギやトウモロコシを占領軍を通じて援助≠オたといいます。ところが実際は援助≠ニいう名の「余剰農作物処理法案」を一九五二年に成立させた。陰謀みたいなもんだったんですよ。つまり、過剰$カ産した食料を言い値≠ナ売りつける、というわけですね。陀羅尼勝一いわく、アメリカが平和≠口にしたら、だいたい侵略と必ず関係するっていうわけですよ。ボクらそのお陰で、キヨちゃんらも経験していると思うけどね、脱脂粉乳というまずい牛乳のようなものとパサパサのパン≠フまずいのを給食に与えられたというわけですよね。日本でもコムギは作っていたけど、麺類が中心ですよね。ところがアメリカの品種はトルコの赤≠ニ呼ばれる品種で、麺類には向かない種類だった。つまりトルコの赤≠ノは麻薬≠フ役目を背負って日本に上陸しているんですよ。ボクの生まれる前、一九四七一月にラク物資≠ニかいわれて援助≠ウれています。ときの田中耕太郎という文相キリスト教的愛の精神≠ニか愛の精神の具体化≠ニいって占領軍司令部をたたえたそうですが、それが学校給食の脱脂粉乳だけどパンはまだなかったのです。その後パンつき給食の脱脂粉乳になったのが、一九五○年です。たとえばガリオ資金という占領地域経済資金で、コムギが寄贈されるようになったからだそうですが、実は寄贈≠ェウソ≠セった。
 実はエロア資金という、綿、羊毛などの購入用と一緒になっていて十八億円もの債務として返済しなければならないんだって。信じられない話でしょう。こういう背景があってメシよりもパンを食べよう≠ニいう大キャンペーンが始まってるんですよね。慶応大学の医学部の林という先生が小冊子作ってるんですよ。発行はパン食普及協議会です。」
「そうだったの。それでわたしもパン食べるように慣らされちゃったんですね。一さん良く調べているわね」
「いや、これは麦とロッキード≠フ受け売りだから、ホンマかどうかは陀羅尼勝一の記事信用するかどうかでしょうね。しかし、アメリカの現実に見ごとに団塊世代はのせられたことは確かですね。とにかく、一番人口が多いんですからね。大学の先生がいかにいい加減かわかるでしょう。いまの減反政策見ていたら――。
 コメ食べると身体が力弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血なりやすいとか、高価でロクなことはないなどとか書いてあったそうですよ。単に栄養バランスを考えることを。パンと白米≠ヌころかムギとコメ≠フ問題にすりかえて、パン食こそ王さま、健康食品と宣伝したんですわ。義務教育により小学生のときから刷り込まれれると、そんなもんかと思いますよね。ぼくらも、朝冷たいご飯のお茶漬けが当たり前の時代に、中野パンのふかふかのに憧れたもんね。近所のうどん丸國っていう、うどん屋の作る麺のおいしかったこと。貧乏人なのに中野パンの味つけパンが恋しくなったんですよ。パサパサのパンの百倍おいしい味だったけどね。表面の黒鹿毛のような焼け具合にバターの香りがして、ただの塩味ぐらいのパンなのにおいしかった。余談ですけどね。
ところがサンフランシスコ講和条約でガリア資金が打ち切られてピンチになった。一九五三年のことですよね。しかしアメリカは餌物である日本を自主独立≠ニ思わせながらも属国政策をやめなかったんやね。
一九五四年にPL408法というのができた。MSAという相互安全保障協定が成立した。この協定がなってから、なんと日本はアメリカがら、小麦六一万トン、大麦一一万二千トンも輸入し、しかもその代金五○○○万ドルを円で積み立てうち八割も米軍の軍事調達資金にまわされていたんですよ。あとの二割は日米の軍事産業を育てるために使われていたっていうんですよ。日本はドルの手持ちがないから円で喰える商品≠買わされていたわけですよ。そして学校給食法≠ェ成立しています。この年らしいです。でき過ぎと思いません!」
「これが、ロッキード問題につながっていっちゃうんでしょう」
「そうですよ。アメリカは学校給食法≠日本に与えて、ムギをパンにする魔法を手にいれた。アメリカ製粉業界は大喜びしたそうですよ。しかも日本に不幸だったのは一九五五年(昭和三○)にコメが記録的な大豊作になった。お陰でパンの生産が減ったのに、給食の小麦消費は増え続けた。文部省の天下り官僚が学校給食会″っています。資金はアメリカに出してもらって、コメ大豊作≠ノ逆戻りさせてはならないと、この学校給食会≠ナコメよりパン<Lャンペーンをさらにやった。その日本の売国的立役者に、あの美智子さんの日清製粉があるわけですよ。正田家ですね」

「そうだったの。象徴天皇制ということで、わたしらも子どもこころにプリンセス美智子さんが平民から出たというので喜んでいたけど、見ごとに資本の論理に組み込まれてちゃっていたのね。それにしても一さんよくご存知ですね。わたしらもオルグの機会にそんな話してみようかな」
「キヨちゃんそりゃやらんほうがいいですよ。こんな理屈っぽい話を好む連中はボクの周りにもおらんからね。市民運動の連中でも左翼のセクトの連中は連合赤軍がそうであるようにとてものんぽり≠ヘ入っていけないもん。僕ら仕事で友だちと顔合しても、政治の話などしないですよ。集会とかでは聞き役として関わることはあるけど、なぜか親友ができない。ま、早い話、組織活動が苦手なんやね。陀羅尼勝一信者のような学生いることはいるけどね。大学入っているころは活動していても、大手の会社に就職して数年もすると幹部候補生やからね。活動家の衣きっぱり脱いでいる感じやもんね。それはともかく。まだ続けていい!」
 一はこんなに深く話込むのは久しぶりだったので必死になっていた。キヨちゃんもさすがに少し目の下にクマができかかっていた。気がつくともう十二時が近かった。義気クンや支局長はあきれて、眠る準備をしていた、一は歩いて帰れる針中野駅が最寄りだから、夜中になっても帰るのに苦労はなかった。三○分も歩けば家に着く。
「じゃ、あと三○分だけ続けて。わたしも勉強になるので一さん、続けちゃって!」

「麦とロッキード≠フせいで一九六○年は農業基本法ができ、一九七○年(昭和四五)のEXPO’70の年には大減反政策が始まっており、日本の農業が崩れだした。農民は出かせぎ≠ネしには生きられない人が増えた。アメリカ金融資本とその意に同調というか、ドレイに従った歴代の自民党政権アメリカ好みの農政を完成させたというわけですよ。そしてですね、冬麦は作れなくなり、田圃は化学肥料と農薬で荒れてしまい、日本で、♪誰かさんと誰かさんが麦畑で、などという光景がなくなってるんやね。つまり、風景だけでは済まないことになった。主食の自給率が四割になってしまった。小麦はたったの四パーセントですよ。それでうどんも輸入しないと作れなくなった。日本人の文字通り生命の根源としての主食≠ヘこのようにアメリカにクビ根っこをおさえられた。ソバもいつの間にか輸入に頼らざるを得なくなった。
 アメリカでは最初はミツバチ用つまり養蜂のための花蜜と家畜用飼料だったのがですね、日本人がソバを食べるというので、輸出しだしたのがきっかけなんですよね。その栽培適地がカナダになったので大生産をやり、それを日本に売る。かくて日本のソバはカナダ産が輸入の第一になっているんやね。ところが、カナダのソバはコムギの方が儲かるというので、小麦に切り替えた。オイルショックでソ連が大量に小麦を買い付けしたからですよ。その結果ソバはカナダ産から中国産に取って代わった、というんです。オイルショック以後、食料自給率を高めるべきだ、という話はよく聞きますが、自民党にもっともひどい目にあわされた農民が自民党に投票するんだからね、ロッキード事件の本質はワイロを受け取った官僚捕まえて、田中角栄だけ追及してもダメだというわけですね。こんなところで終わります」
キヨちゃんは小さく三度ほど拍手して「ありがとう」と右手を差し出し一に握手を求めた。一はこの時、この話相手が愛ちゃんだったらと思ったのは当然だった。
 
DCr2-acUMAYB9WT.jpg
posted by torayosa at 10:21| 兵庫 ☔| 自伝的実録風小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月21日

白い本の充填恋文の形$V構想小説のブログ無料公開シリーズ(その2)

いつでも雨が降れば花が咲くシリーズ
SN3J0020 (800x551).jpg
いちご白書をもう一度(その2)


(この後 奴≠ヘその後の30年何も変わっていない凡人ぶりに邂逅する。)
あとは発表しません。奴≠ニ市川寛子モデルの部我路奈の『二人の世界』だ。http://torayosa03.seesaa.net/article/405709305.html
 奴≠ヘ自分のいブログに新構想小説の経過を少し無料公開してまた自分の人生を生きるための作業に没頭しだした。

IMG_20141225_144719.JPG
DSC_7151 (498x750).jpg



白紙本の充填

『恋文の形』

数詞 一


                  一

《三日ほど前から小田実の『大地と星輝く天の子』という小説を読みだしている。ソクラテス時代のギリシャ、アゴラの街の庶民、貴族。奴隷、商人の姿が手に取るように描かれている。メレトレスなどというややこしい名前がいっぱいでてくる。みんなまとめて競走馬の名になれば良く覚えられるのだが…。
 大体いま何やっているかというと、仕事がどうも進まない。その気にならないので「思いのたけ」という言葉にかまけて、日記帳にひさしぶりに落書きをしているのだ。
昼間仕事をやろうという意欲があったんだ。ひさしぶりに難波場外馬券場へ行って朝日CCの2〜5の馬券三枚と7Rの4〜6一枚を買ってその後仕事に励もうと思っていたんだ。ところが、昨夜いなかったお袋が、二時ごろにご帰還あそばした。ここでまず調子を狂わされる。そういうわけで競馬中継に熱中してしまう。メインレースの朝日CCはイットーが楽勝かと思われたのだが、あと百メートルぐらいのところでモタモタしていたロングホークが鋭い伸び足を見せあれよされよという間にイットーを鼻差交わしてしまった。馬券は取ったんだから文句つけることはないのだが、できればイットーは一等にであってほしかった。鼻差の二着は58キロの斤量が応えた結果だとは思うけれど、まあ! イットーさん今度はガッチリ重賞をモノにしてください。トウメイのような差し足が使えるようになれば、ちょっとやそっとで負けるわけがないハズだ。
大体またこの言葉がでてきた。自分のボキャブラリーの貧困さをさらす思いだ。そやけど猪名川霊園の企画、できそうでできない黄昏どきみたいなもので一向にピリッと企画がまとまらない。いや、まとめようという志に我輩がかけていることがそもそも問題なのだ。
ああ! 阪神対巨人どうなっとるんかな!
ちょっとテレビツケてみようか。それともラジオつけてみようか。「アカンでなにいうとんのん。あんたは仕事せんと月日がけいへんやんか」と誰かさんにいわれそうな気がするけれど、ってそななわいはいまどないしょうと思ってるんだ。

9/29
 いまの世の中、現状がいかに自由であるためにもろもろの不自由がおおおいかぶさっていることか。
どうせ人間、年とれば「角が丸なるんやから……」とわたしは人生の諸先輩に良く言われた。しかし、二十八歳になったいま改めて感じるのは、ますます、そうならない志を、自分の中に確かなものとしてある。
『強権と確執をかもしだす志』を維持したいのだ。大江健三郎さん、そうでしょう。》


 しかし奴≠ヘ日記もろくに書かないで、突然長い日記書いたりしてなにやっとんねん。イットー馬券取ってそれでキャバレーで遊んだんちゃうんか。確かに猪名川霊園の仕事でいままでにない、企画を立てようと小田実のギリシャアゴラの世界の民主主義の内実まで学ぼうとしたのは確かだ。鈴木武樹の本をかなり読みだしたのも確かだ。本多勝一の著作を集めだしたのも確かだろう。しかし、奴≠ノ大きな志があったわけではない。確かに青年海外協力隊などに応募するためにはどのような資格がいるのかを調べたりしたことはあるだろう。そして、現実の稼ぎのために自分の趣味と実益を結びつける企画を作るために、納期が少し遅れたが、画期的ともいえる霊園広告企画を立て採用されたのが幸いした。奴≠ヘ知っているのだ。霊園は山奥で知名度がない、知名度を上げるのはテレビスポットがいちばんだが高い。当面の資金繰りのリスクもある。新聞は安定媒体だが、戸建て住宅地を売る環境にはまだなっていない。能勢の山奥でも一九七○年には新興住宅が建てられている。奴≠フ取り組みの苦悩はその間隙を埋める豪華パンフレットや印象的に知名度をあげる仕組みのための折込チラシなのだ。しかもサイズもタブロイド判かB4サイズ。確かに友人が営業的に社長に可愛がられ昼間からキャバクラ付き合ったり夜は夜で新地のクラブにご相伴するというつきあいから取ってきた仕事だ。友人は木版画もやっているから本来はそういう営業職を理想としているわけではなかった。しかし、大丸のしごとをやっていた上司の独立の際に請われて小さなデザイン印刷ブローカー事務所設立メンバーに入ったのだが、本来はデザイナーとかイラストレーターとかを目指していた。しかし彼は大丸の仕事をする印刷会社の営業に配属され、大丸の仕事をする若い才能のイラストレーターの存在におののいた。そして千尋イラストの天才型のイラストレイターの出現にうちのめされた。彼らは若くして大金を稼ぐ存在だった。毎年B判全倍という巨大看板にするようなポスターを正月につくり得意先に無料で配布した。その圧倒的な大きさにまず関係者は恐れおののき、彼らふたりの若さに中年のクリエーターたちは自分の地位固めに奔走するのだが、一も友人からも自身がかつて勤めていた会社の営業助手の時代から千尋イラストのアトリエに通い、彼の独創の鈍色の背景に当時の庶民の夢&`く建売り住宅は神秘的な輝きを秘め、伊藤忠系の中堅商社の出目建は新建材も含めて元気だった。
そこに千尋イラストのような若い才能が独自感覚で建築予想図、つまりパースを描いた。一はその担当になった時期、彼の六甲のアトリエに通いつめた。締め切りが過ぎている。しかし、彼はあちこちから仕事が殺到していた。どの仕事も彼は作家的感覚を準備していた。作業は早いが下書きも時間をかける、納得するまでがどうしても制作に時間を要するらしい。奴≠ヘまだそこのことを思い出す前に二十七歳を九月に終えていた。


                二


奴≠フ日記は10/19に飛ぶ。この年奴≠ヘ習慣だった日記を書かなくなるきっかけの年でもあった。

《僕は風邪をひいた。もう今日で丁度一週間と一日目である。最初、注意しなければと感じたのは、先週の水曜日だ。楽しみにしていたモハメット・アリとジョー・フレイザーの世界ヘビー級タイトルマッチがあった日だ。
 その日僕は中継を特等席で見るために東芝のショールームへ早めに行った。過去このショールームでは二度お世話になっている。一度は昨年のザイールの奇跡と呼ばれたアリ神話復活試合、もうひとつはチャンピオンとしての初防衛戦チャップ・ウエップナーとの試合だった。ところでこの世界タイトルマッチだが、十五ラウンドやっておればノックダウンさす機会が十分にあったであろう。十三、十四ラウンドのアリの攻勢はすさまじいものだった。しかし、アリのTKO勝ちが告げられるや否や意外なことが起こった。
チャンピオンアリがキャンバスに沈んでしまったのだ。最初大の字になりそれから取り巻きに抱きかかえられるように椅子に腰を掛けたものの、いつもの試合後のアリの姿はそこにはなかった。――すっかり力を出し切ったその疲れだけがあるようだった。――その姿を見て「ああ!」ひと息大きくため息。
なぜだか僕まですっかり疲労を覚えていた。
あの試合の興奮が尾を引いのだろうか。
それにしてもその日から身体の具合が突然まずくなったのだ。翌朝は少しのどの痛みを感じていた。O・D・Pの仕事を今日、明日中になんとかやらなければそんなことを思いながらヤル気を出そうと思っていたのだが……。その日、出先の東梅田近くの旭屋書店から事務所へ寄らずにそのまま帰宅した。
そして、悪寒。熱。風邪の諸症状がどっと出た。
それからすでに一週間。喘息気味の咳が出だす。これがあるから我ながらうんざりする。夜は熟睡できない。
ああオレはしんどいのだ。》


奴≠ヘモハメッド・アリとジョー・フレイザーのスリラーイン・マニラの亡霊にうなされたのだ。ちなみに奴≠ェボクシング中継のたびにスケジュールを調整して通った東芝のショールームは現在のOMMビルの地下一階にあり、数十人が大きな60インチぐらいのテレビ画面を囲んでもゆとりがあるほど広いスペースをとっていた。奴≠ェその後初めて地デジやハードディスク録画機などを東芝の製品を愛用するきっかけになったのはこの所為だ。奴≠フボクシング好きはその後も『羽琉多筆記』に大きな投影をして現在に顕れているのだが、ここでもなんの脈絡もなく重大なことは日記に記していた。

《11/9 菊花賞2〜64890円一枚取る。ロングファストの外からの伸び足が勝ちを決めた。しかし、勝ったのはコクサイプリンス。

11/13 初めて住之江競艇に行く。虚心坦懐の初めてのこころで5R全部当って約四万円儲ける。しかし、その後五日通って全部吐き出してしまった。ギャンブルは頭に血がのぼったら負けるとはよくいったものだ。
 その通りになった。取った最終日は予想がからっきし当たらなかった。ツキが逃げたのだ。
最近読んだ本
11/15 『知的生産の技術』梅棹忠夫著 岩波文庫
11/14
『差別用語』差別用語研究会編集
差別用語のマスコミの自由規制ならびに(以下余白)

十月に観た映画
『ストリートファイター』ジェームス・コバーン、チャールズ・ブロンソン
『マンディンゴ』西部の南北戦争の奴隷牧場が舞台。マンディンゴは種族の名で強く従順なので純血種は最も高く売れた。そのマンディンゴの役に現役ボクサーケン・ノートンが出演した、モハメッド・アリならこの映画をどう見るであろうか。

十一月に観た映画
『卒業試験』シルビア・クリスタル主演
『同胞』倍賞千恵子の統一劇場の組織部の河野さんが主演。盛岡から一時間ほど入った八幡平に広がる松尾は青年会斉藤高志にミュージカルの『ふるさと』の公演を主催してほしいというところから物語始まる。
五月中旬》、まだドカ雪がいっぱいある頃に初めて河野は青年会会長宅を訪れた。
『恋する』夢二物語、映画は絵画的で原画がアップにされるなど演出は巧みであったが、なんだか駆け足映画という感じであった。
彦乃は中野良子が好演技ていた、
夢二の出会いのシーンなど殆どセリフがなく、いったいどうなっているんだろうと思ったものだ。初めて夢二に言葉を語ったときなんだかホッとした。恋ごころがすっと顕れて印象的な画面だった》

ここまで記しところの空白はどのように埋められたのかが、この白い本の充填の要点だ。奴≠ヘ毎朝新聞のオピニオンにどんな投書の下書きをしていたのか。

《そのときからボクのこころに戦争を起こしてはならない、と、ハッキリ自分の意志を持つことができました。
 この反戦の自覚を再認識して、いまの世の中のありようを眺めると、一体日本はどうなるのだろうか? の不安を抱かざるを得ません。護国寺法案は、小選挙区制、自衛隊という名の軍隊の四次防予算増大。
天皇キャンペーンの復活等、ニクソンの傀儡政府の伝統が本○勝□の言うところの『殺す側の論理』を巧妙にやっていることが、明らかではないかと思います。
こういった状況のなかで、戦争を起こさない気持ちを持つことの意味を決して、権力に利用されてはならないのです。》と14頁の空白を充填した奴≠ヘこのMEMOを噛みしている。《日本軍国主義の侵略戦争の犠牲になった人たちの声、体験を知ったからです。》


通し番号のダブリを奴≠ヘ耄碌しているからしているようだが、本質とは関係ない。つまりその充填の反芻は奴≠フ人生の自分のミッシングリンクを自己解析する行為でしかないのだが、奴≠ヘ通し番号14頁をだぶっているのを気付かずにさらに空白を充填する作業をつづけていた。

愛するひとを守る∞守り合う∞寄り添う=Aそういうときに、またも自分が気づいていない、やっとD愛社の企画部へ入れるかも知れないという一九六十年代後半の春弥生というにはまだ寒い日、D愛社の将来のビジョンを知るのだが、そのきっかけは、企画部のBさんにあったとき、大阪府庁の便箋にMEMOをなぜ残しのか? 将来に希望を持ったハズ≠フBさん一家が能勢の山奥とも思える地に引っ越しするのは、高度成長時代の仕上げでもあったのだろう。一は、Bさんの引っ越しの手伝いの前日に小田急こと織田さんと悪友四人が集い麻雀をしていた。例によって終わったのは朝の六時だ。選果はプラス四○点とまずまずだったが初心者で下手だった。点数も満足に数えられない。しかも、麻雀の席は煙草の嵐だ。喉がすぐにやられる。それでもつき合うのは、若さゆえだった。

《午前九時からD愛社の企画部部員Bさん二十五歳の引っ越しの手伝いを依頼されていた。眠い目をこすりながら今里まで行く。堺の浜寺から三○分。日曜日なので混んでいなかった。もう、三台のクルマに分けて荷物を積んでいる。大阪の東の中心部から一挙に、大阪府能勢郡の東能勢村などへ行く。通勤だって一時間三○分はかかる。ずいぶん田舎へ行くものだ。四ツ橋から阪神高速を通って池田まで、二○分。池田から能勢の手前ときわ台まで役一時間、思ったより早く着いた。新しい家は我々の得意先の商社の出目建が開発した分譲地である。六畳、居間、4・5畳、4・5畳、DKと六○坪の敷地は市内ではないだけに、新鮮に感じた。なによりもスモッグがないし空気が旨い。ちょっとうらやましくなった。》

 当時、D愛社の有力得意先には、この出目建という伊藤忠商事系列の建材商社の出目建商社の子会社の不動産部門が思い切った郊外開発にも参加し、能勢ときわ台や枚方の樟葉などに建売住宅を発売しだした。Bさんはデザイナーとして途中入社して数年で頭角を現しそうな勢いで兄弟の決断で今里の古家から移転を決断していた。一の直属の上司の部長や営業の上司だったひとも、こういうコネから樟葉のマイホームを手に入れていた。また、一は上司の営業助手としてこの商社がある肥後橋の朝日ビルまで出向社員となって通った一年があった。
身近なひとたちがマイホームを手に入れることで、社員のやる気を増幅されいる時代で、高度成長が夢叶う第一歩の風潮になったことは確かである。一はこういう社内の息吹を感じながら、まずは営業成績を上げて、また、社長の信頼をを勝ち取るために、何か社内の朝礼で声が上がると、即行動に移した。自分が企画部に入るよりも先に、のちにBさんと結婚してさっさと退社したAさんを入社させたのも一だった。

《三月一日
 今日から企画部にボクが紹介したAさんが入社した。彼女は昨年の十二月に一流保険会社を退社していた。自分のやりたい仕事をしようといろいろ考えていた姿にひたむきな所が感じられたので、ボクも彼女の為にひと肌脱ごうと決心したのだ。それだけに、彼女がD愛社に必要があるかどうかには、随分考えさせられた。しかしボクの作戦が当たって、今日から出社の運びになったことは、本当にうれしかった。
一週間前、彼女からD愛社に入りたいと言ってきたので、ボクは仕事の性格、むずかしさについて随分、彼女が嫌がるようなことを言った。だけど言うだけのことを言った以上、あとは確信ある答を彼女に伝えればこと≠ヘ済むのだ。正直なところ、えらいことを引き受けたと思ったものだが、土曜日抜き打ちに、彼女に履歴書を持たして、営業部長、企画部長に面会させたのが成功したのだから痛快だ。
ボクはここで、またひとつの確信を得た。いま、自分ができることを一生懸命やりたいということを……。》

実際、入社させたら報奨金が二万円も貰える。入社三年目ぐらいの一にとっては大金だ。ひとつきの給料の手取りが手に入る感覚だった。それだけの報奨金がもらうからには責任がある。ところが、入社して一年もすると社内恋愛をし、結婚退社。BさんもD愛社企画部での実績を武器に大手広告代理店に転職してしまった。ま、こういう事態になったからといって、一はあからさまに責められなかったのは、事業規模の拡大と共に一自身も夜にコピーライター養成講座に通うなどの努力が認められて、途中入社の連中より量的にも質的にも劣らない仕事をこなせたからだったが、それでも、もうひとり大手製薬会社の友人の職場にいた人間が、デザイナーになりたいというので入社させりしている。社長がエクスポ70を控えて営業会議などでも会社のビジョンを熱っぽく話、一はその実現のためには、自分も小なりといえども会社の株主になり、経営者感覚を身につけたい、と思っていた。

《三月十四日
 二時から営業会議があった。社長のD愛社の将来について現状の考えを中心にした話があった。カタログセンター″\想だ。三年後には空堀通りの新社屋は五階建てになるという。しかし、それ以外のことでは、我々の考えていることに対して、ごまかされたみたいで、ちょっと不満であった。その後、例によって来月の売上目標予定など予算計上と当月の実績発表、この月は営業部全体が低調で予算達成はならなかったようだ。昇給月であるだけに計上予算売上げ目標が達成できなかって残念である。今月の昇給が、ことし一年の運命を大きく左右するだけに……。
六時過ぎから営業のNさんHさん、企画部のSさんと麻雀をする。先月大きく負けただかに今月は何としても、原点に持って行きたかった。結果は最初トップでプラス四十一点と浮いたのが幸いして、プラス十三ほど勝つことができた。ボクはまだ勝つ技術がないが運が良かった。夜マコちゃんの夢を見た。こんなにハッキリ夢を見たのは初めてだ。
グリーン、赤、紺のチェックのミニスカートに白いブラウスをのぞかせ赤いコートがすごく可愛い。》
一は、会社のビジョンに対して何を思ったのかを思い出せない。万博を控えて、大阪の空気が動いていることは確かに感じるなか、この頃だけ、なぜか大阪府章の付いた便箋で日記を残しているのだが見つかった。それも思いがけないところからだ。

《三月十五日
 万博の一般公開日だが特別な感激は別にない。午前十一阪急三番街で神戸のマドモアデルとデイトの約束していたが来なかったから、得意先の人に頼まれていた場外馬券の当たり券を一万六千円ほど自分も買っていて、当てたのでそれで仁川の阪神競馬場に行くことにした。
約束の時間に来なかったので、振られたと諦めて、さっさと阪神競馬場へ行った。
八Rオープン、トウメイとクリカシワの連複一五二○円ゲットと調子良かった。それに気をよくして十R牡馬四歳特別二―五も入って二千二○円の配当を取り、懐には万札が溜まりだした。レース内容はタマミ、タニノタマナーの一騎打ちと思っていたのだが、フジノタカヒメ、外からジョイフルが差し込んで来たので、冷や汗ものだった。
このところ、五回競馬やって五連続勝利だ。すべてがいいなど欲張りというもんだ。

 というような調子で営業職は実績主義なので、一は競馬通いもマメにやっていたのだ。
D愛社を辞め北海道旅行、その後の知人のデザインスタジオ入社。セキセイ化学の受付嬢に恋をした。マコちゃんタイプの可愛い系であるが、その仕事ぶりは媚がない気に入った。毎日行く用事があるから、何やかや気を惹こうとして服装も上着はギンガムチェックの淡いブルー、いま風にいうとパンツはピシっと太腿にまとわりつくようなパンタロン、と自分では企画コピーライターとして目立っていたつもりだったが、相手は大手の受付嬢だ。良い男など無数に見慣れている。三宮さんに相談して、あの手この手を考えたが空振り三振が続いた。
ラブレターを入れた出張先の土産なども用意したが、やっぱりだめだった。
通し番号23頁までの空白の充填はこのような日常を断片的に書いているのだ。一は競馬には強く常に小遣いには不自由しなかった。とにかく五連続で競馬で勝ち、札入れには常に五万円ぐらい持ち歩いていた。二つ折りにして挟む形式のものだ。給料の倍ぐらい常に持ち歩いていたのだから羽振りは良かった。だから、キャバレーや悪所通いも手持ちの小遣いには困らなかったのだ。そして24頁からは気分は詩人になりたいのこころ模様になっていた。

鼓動

サイモンとガーファンクルのメロディが流れる部屋にボクはひとりで居る
元気を出すために音楽をかけたのにだんだんさびしくなり
ぼくはすっかりしょげてしまった。
だめだったな その娘と話したのに
もう少しうまっく話せるかと思っていたのに
身動きがとれないぎこちなさだった
どうしてだろう


   エーデルワイス

北海道利尻で見たエーデルワイスは
赤や黄、オレンジと咲き誇る
他の高山植物を尻目に
誰よりも小さな花を
粉雪のような純白色で咲かせていた

あなたはまさしく
利尻に見たエーデルワイスの化身です
まばゆく輝く瞳
チャーミングなほくろ
さくらんぼの口元
太陽の明るさの身体(プロポーション)
あなたは何という輝きで
満ち満ちているのでしょうか


   黄金の茜色

昨日の夕焼けは
大阪というビルの谷間を
すべて茜色で染め都会を
マカロニ・ウエスタンの主人公が行き交う背景に夕日のガンマンが美男颯爽
ボクが見た夕日のガンマンは
ジュリアーノ・ジェンマや
クリント。イーストウッドもでて来ない
都会の砂漠に『荒野の一ドル銀貨』はなかった。

秋風が冷たくて
ひとりぼっちのこころ
ふっきれない固くて壊れないぎこちない
かたまりが胸をしめつける万力のネジ
ボクはすっかり息苦しくなり
御堂筋の銀杏が随分黄色くて
排気ガスと戯れながら黄金色の札束が舞う
そして、ハンス・ギーベンラートになり
車輪の下にひれ伏す
         一九七○年十一月十五日


神戸六甲の天才イラストレーター
千尋さんは天賦の才を持つイラストレーターだ
アトリエは六甲の高台だ。
リキテックスの大きな刷毛で背景の色を
ブラッシングのタッチを残しながら何度も イラストボードに敷く
描くのではなく敷物のように整える
その作業に見とれながら、無口な青年がボソボソと語る
「はじめさん、この色なにかわかりますか?」
 凡人の得意先の建築パースの依頼人に
過ぎない人と自分に二度までいい聞かす
人間だ。
「わかりません!」と答えるしかない
赤錆が淡く溶けてそこに黄色が複雑に
まざり、矢枯れた鈍色の海
「いま、かじかが鳴いているでしょう」
「そうでしたか。ボクは千尋さんの謎解きのような
言葉にいつも脅えながら、あっそうでしたか?」(三○頁のルビはまたダブル)
窓越しの遠景は神戸港が広がり
眼下は緑と谷間の清流があり、上を見れば 六甲のやまなみが連なる
「はじめさん、恋していますか?」
「実はわたし、いまさるキャバレー嬢に……」
「素敵な奥さまおられるじゃないですか」
「そうです。でも、恋≠した」
締め切りの多忙にアトリエに張りつかざるを得ないボクは(ただいま、失恋中ともいえず)
マコちゃんを思いだした

千尋さんはひとつ年上だけなのに
大人だ。いやボクはくらべる対象ではない。
「恋はネ……好きになることですね」ニヒルな表情が柔らかくマシュマロを含んだ赤子のように可愛く西日に輝きだしていた。
千尋さんの言葉は
あまりに鋭く情熱的で
ロマンチックなのですっかり魅了され
ボクは自分がいる世界を見失いそうになった
あの二次元の世界に向かって
幅が七センチはあろうかという刷毛のような筆を
大胆に敷く
波打つ刷毛後に浮かぶ
仮想現実の建物群や道路
絵筆の瞬間はまるでガンマンの早撃ち
鋭い目は格闘家の趣だ
ボクは驚いて、ときどき息を吸うのを忘れた
自分の身体のエネルギーが吸いとられる
こんな数日を千尋さんと過ごした日々
凡人のボクは一生懸命になっているとき、
果たしてどんなだろう
そうだ新しい恋≠しよう!  


一が企画部になってからは、グラフィックデザイナーを諦めて、コピーライターの勉強をして企画をまとめるという方向に行かざるを得なかったのは、千尋さんのような才能に出会ったからだった。少しマネをしたこともあるが、才能がないことで自信をなくすだけだった。千尋さんは近未来のクルマが走る住宅街をみごとに浮かべるので、未来イラスタレーターつまりSFイラストレーターでもあった。もちろんファッションイラストもこなした。EXPO’70 の時代、一は仕事以外の関心事はボクシング中継だ。あらゆる時間をやりくりして見るようににしていた。ランダムに思い出すだけでも多くの場面が頭に浮かんでくる。
テレビの『スター誕生』から山口百恵や中森明菜が登場したように、TBSと極東プロモーションが企画したボクシング教室≠ゥら精密機械≠フ異名を持つ沼田義明が登場した。デビュー以来二十四連勝。鹿児島出身の奄島勇児というサウスポーに三回KO負けするまでつづいいたあと、ジュニアライト級(現在のスーパーフェザー級)の東洋、世界タイトルを獲得したのは、フィリピンのラリー・エスピノサ、二年後の六月にフラッシュ・エロルデを倒してからその対抗馬として現れたのが小林弘だ。もともとフェザー級の世界チャンピオンをめざしていたのだが、日本人対決としてボクシングファンの話題を二分した。小林弘は地味なボクサーファイターだったが経験が豊かだった。デビューは同時期だったが知名度は沼田義明だった。
だが小林弘はスーパーフェザー級日本人対決で精密機会≠壊しKO勝ちして見せた。
一はボクシングのこととなると有名ボクサーの固有名詞が自然と頭に浮かぶ。最近のボクサーの名はすぐに忘れるのにこの性癖がでる。小林弘はスーパーフェザーを六度防衛している。つぎは西城正三だ。シンデレラ・ボーイ≠ニなり、海外でフェザー級チャンピオンのラウル・ロハスに挑戦し、判定勝ちしたのだ。一七九三年のことだ。三か月後のリターンマッチでも勝ったもんだから大騒ぎになった。一はその後、谷野企画に入り、誰からとなくボクシングの話を吹っかけていた。「あの西城正三はデビューして十三勝二KOのパンチ力ない、三敗している平凡なボクサーでしょう。彼がラウル・ロハスに勝つなんて考えられる? しかもアメリカのロサンゼルスだったかでやってるんやで! 協栄ジムのカネヒラさんって、海老原とかチャンピオン出しているけど、よくこんなカードマッチメイクしたもんやなァ! そう思いません」「おまえ、またボクシングか。ま、仕事やってからならいいけどなあ! 得意先では、軽々しく話たらアカンデェ! お前のようなボクシング好きばっかりちゃうからな。セキスイなんかみんな一部覗いて高学歴ばかりやさかいな。相手見て話さなアカン!」と新しく入ったデザインスタジオの社長にもよく釘を刺されたもんだ。一緒に行動することが多かったタケさんは空手やボクシング習っていた割には、あまり関心を示さないので、一はのそういう世界タイトルマッチの話題がつづくと欲求不満になるのだった。
実は高森朝雄作、ちばてつや画の『あしたのジョー』の連載はこの一九六八年に雑誌連載が始まり、一九七○年にテレビアニメが放映されている。
小林弘はノンタイトル戦ながら西城正三と一九七○年十二月に対決し判定勝ちしている。西城正三は一と同じ団塊世代の文字通りシンデレラ・ボーイ≠ナあり、世界タイトルを五度防衛している。アントニオ・ゴメスに負けたというのを思い出すが試合内容はまったく覚えていない。つまり、『あしたのジョー』アニメ化は西城正三の出現によって、人気になったといっても過言ではなかった。
最近、ロンドンオリンピックの金メダリスト村田諒太がプロ入り宣言し、プロテストの模様をフジテレビがゴールデンタイムで放映してボクシングファンの間では少し話題になったが、日本で金メダリスト日本で金メダリストのプロ入門の第一号はやはり一の世代の団塊の櫻井孝雄だった。オリンピック史上初のボクサー金メダリストで中央大学を卒業して三迫ジムに入った。村田諒太も三迫ジムを選んだのはそういういきさつがあるかも知れないが(現帝拳所属)、ともかく一は村田諒太のミドル級≠ニいう厳しいクラスで世界チャンピオンを狙うことは大歓迎だ。彼なら順調にマッチメイクができれば二、三年後にどこの団体でも挑戦できるチャンスが来るだろう。その非凡さはA級ライセンス取得の実技テストで証明されていた。上下の打ち分けができるテクニック、多彩なアッパー、フックの打ち分け、防御技術、元日本チャンプ相手のテストだったが、格の違いを証明してみせた。当たり前のことではあったが……。一はボクシングに人生をなぞりたい、と良く思う。最近もそういう自分の人生の生き様の『宝物』のひとつを自分の大切な愛≠ノ預けていた。その対象は彼女でないといけないのだ。二○一○年十二月八日、彼女が横浜スーパーアリーナで行った休養LIVEにその答があった。その楽曲を羅列すればハッキリする。

一は年金をやりくりしながら自分では禁断としていた、二○一○年の十二月八日のことを思いだし『UTADA HIKARU WILD LIFE』YKOHAMA ARENAをアマゾンで購入した。きっかけは『レインマン』を観るのに必要だったからだ。ビデオが故障して再生がうまくいかないので通販で買うことを薦めた。幸い中古出品もあり、正価二五○○円が半額で買えることがわかり、ついでにダスティ・ホフマンが映画キャンペーンで日本に来ていて『徹子の部屋』に出演しているのに刺激を受けこの白紙本のサイモンとガーファンクルのブレークの『卒業』のブルーレイも購入していた。一はブルーレイはPCでしか再生できないので、四月二十二日は『レインマン』を居室のHDで観てさらにNOTEでしかできないので、四月二十二日は『レインマン』を居室のHDで観てさらにパソコンの部屋に移動して『卒業』を観た。アン・バンクロフトのミセス・ロビンソンの大人の色気、誘うシーンにしびれた憧れたものだが、残念ながら一は私生活でそういう経験はない。あるのは飲み屋のホステスぐらいだ。それなら誰にもある。しかし、相手が必要な時期っていうものもある。セキセイ化学の受付嬢はそういう時期に現れた。しかし失敗に終わった。デザインスタジオの事務員が好意を示してくれたこともあったがそれは新しい職場に入り通過儀礼として、ベンチャーズに誘っただけのオープンなものだ。他にもデザインスタジオに出入りする連中とスキーに行ったり、釣りに行ったりして、それとなく好意を寄せられたこともあったが、残念ながら恋愛の対象にならなかった。取引先の女性にその候補者になりそうな女性が二人ほどいたが、それも仕事のクールさがあり、燃えることもなかった。しかし、PR記者として遊んでいたスナックピードラのママには甘えることができたのは確かだった。
一九七五年という時期、オイルショックで仕事が急に減り予測されたこととはいえ一は動揺していた。初めて自信が揺らいだ。短く記している日記の断面に 
身体が大きな地震のあとの余震におびえているかのようなだった。D愛社で新規開拓したラセン管の会社などにも直接営業をかけてなど、手をこまねいているわけではなかった。

   
             三


一は碁が趣味である。だから狗HK囲碁選手権の中継を欠かさず見るようにしている。解説を聞いていればわかった気になるからだ。しかし、実際に碁会所や対面で年寄りと碁を打つのは嫌いだ。自分は歯なしであり、喉が弱く煙草の煙に弱い。もうひとつはまだ碁をじっくり趣味にする前に他にやりたい優先順位がある。例えばサッカー観戦であり、ライブであり新構想を含めた小説書きであり、『春日NOTE Loose Leaf』書きであり、遺書がわりに残しておきたい自伝小説であり、となると確かに体力の衰えと気力の衰えとの勝負でありんす、となるのだが、ここ十年の準備をして最悪の環境から反撃にでた行為には後悔はない。いまもときどきBSの名人戦や本因坊戦の中継を見たりしている。プロの棋士の発想力は解説でいわれて初めてわかることだが、いまは昔たかだか三か月だったがD愛社の近くの環状線の鶴橋駅近くの下味原交差点の南西角のひとつ裏筋にあった「弥生」という碁会所の先生に習ったことがあった。こういう経験を坂口安吾の短編小説や真継伸彦のような小説にできる才能はないのだが、試みる機会があるかも知れない。なぜかというと狗HK囲碁選手権の前にやる碁の番組の美人おばさんのIさんなどは、一がいつぞや日比谷のさる映画館でしか近くで上映されなかった『キャピタリズム マネーは踊る』(マイケル・ムーア)のドキュメントを観に行ったとき、なぜか突然目のまえにIさんが現れて面くらったことがあった。また羽琉多筆記に『エミリー・ザ・ストレンジ天然色判』制作のために相模原サウザン通りのコンビニでプリント作業していたら女流の万○二段が現れたりした。このときも随分と戸惑った。なんで? という感じで関心そこにおよばなかったからだ。しかし、その謎は少し溶けた。昨日たまたまスマホでニコ動の名人戦第三局の中継があったので追い出されながらも少し見ていたら、突然そこにアマチュアのIさんが解説のT宇宙流先生の相手としてハプニングで現れたのだ。いま、碁界は井山裕太六冠王中心に回っているが、関西棋院勢が総じて元気だ。U九段などは狗HK選手権者をここ五、六年で三連覇や連覇を含む五度は優勝しているハズだ。また、T宇宙流先生は斎藤佑樹が場内整備のアルバイトに現れた、安邑ちゃん好きv( ̄Д ̄)v イエイ!の東京代々木体育館のライブにきていた。そのときなぜかアリーナ席の特等席でひときわ目立つ頭のT先生も観にきていて驚いたものだ。碁界のエピソードを書けばそれだけで短編小説になる。台湾の、いやこれは重要なネタだからまだ伏せておこう。
その前兆はこうだ。
女流先生の碁会所通いのきっかけは美人女将の後家さんが経営しているという噂を下味原の交差点の良く通った中華料理店で耳にしたからだった。しかし続けられなかったのはD愛社の企画部がD愛プランニングとして別事務所を空堀通りのビルに開設したからだった。プラニング部門は個性的集団であり、営業部との対立もあったりしたのだが総じておもろいことをやろうとする精神に富んでいた。しかも所長の上司もそれを奨励した。自由な雰囲気と広い応接セットの置かれた空間が快適だった。一の服装も連中に感化され、頭はいつの間にか柔らかなウエーブになり、長めでセーターも赤など着てそれがさまになっていた。碁会所弥生に三か月しか通えなかったのはD愛プランニングは谷町九丁目が最寄り駅だったからだ。鶴橋の下味原交差点まで来るにはD愛社の事務所へ十分さらに十数分を要した。しかも制作の仕事はどうしても夜遅くなる。だから、通えなくなった。営業のときなら成果主義なのでやりくり可能な面もあったが、制作はロケハンとか現場取材とかが多く不規則な仕事なので自分だけのやりくりができない事情があったからだ。それと一のもうひとつの理由は義兄の兄の一家が、女流棋士が誕生する囲碁一家だったからだ。弥生の女将は多分素人高段者で和服を着こなし正座の姿勢も美しく対面して一も正座の姿勢を崩せず緊張したが、勝ち気で意志が強く映画にでてくるような日常だったものだ。星目から教わり五級ぐらいになったところで通わなくなり、その後の囲碁はそこに留まっている。 一は空白の充填を埋めるために40頁ぐらいからこの新構想小説で書き出したように自分の日記を六本木テレビの部我アナ宛に繰り返し訴えていた。一はこだわっているのは自由≠ノついてだ。これだけは生涯の命題であり、生き方でその自由≠ノついて証明をしなければならない世の中を必要としている。
いま、TPP参加、憲法改悪の動き水道の民営化など暮らしを不安にさせる政策が花盛りだ。それもこれも投票率低下とポピュリズムのマスコミ情報操作の成果なのだ。
陣遊・後攻の連立政権はあらゆる権力を手に入れしかもTPP参加でアメリカ国際金融資本に頭を下げ続ける。一方で美しい国の矛盾を安倍首相は、台本を読む役者のように口にする。手元には陀羅尼勝一の『麦とロッキード』の文庫本を置き、三十数年前の原発事情と自然破壊の環境問題と安保という名の日米軍事同盟の麦とロッキード≠再読していた。PCでは『チャンプ』を観ながらペンを進めた。

アリとフレイジャーの「スリラーインマニラ」のテレビ観戦のあと十月といえばその前年に日本、東洋、世界フライ級のチャンピオンを次々と倒した大場政夫がWBA世界チャンピオンのタイのベルクレック・チェルバンチャイに挑戦したときでもあった。しかも十三回にKOした頃でもあった。一はこの大場政夫につていは思い入れもありブログにも書いていたほどだ。

《二○○九年五月四日「ボクシングをガールフレンドに語るなかれ!」

 四十数年前(正しくは三十数年前の誤植、フライ級に大場政夫という選手がいた。やさ男でとてもボクシングをやるような風貌には見えなかったが、強気の気性が彼の持ち味で、「左が世界を制する」という言葉を忠実に実行しうる技術を身につけていた。タイの強豪のベルクレック・チェルバンチャイを13RにKOしてフライ級のチャンピオンになったころ、私のボクシング熱はさらに増していた。
昨夜パッキャオがスーパーライト級のハットンに豪快な左フックを放ったとき、その倒れ方の衝撃はゲストの香川照之氏(俳優)をして、石のこぶしことロベルト・デュランが、トーマス・ハーンズにKO負けした衝撃を思い出ささせたという話を語り、私はその話から連想ゲームのように、ミドル級のマービン・マービラス・ハグラーがトーマス・ハーンズを左フック一発の衝撃で窮地に陥れたシーンを思い描いていた。
さらに日本ボクシング協会会長の原田氏が記憶が定かであれば、敵地豪州で、ジョニー・ファメションと3階級制覇をかけて対戦し3度のダウンを奪ったにもかかわらず、ホームタウンデビジョンのために3階級制覇ができなかったことを思い出していた。それでも日本人ボクサーでファイティング原田氏の伝説を超えるボクサーは出ていない。
フライ級にポーン・キングピッチを11RにKOし十九歳でフライ級チャンピオンになり、黄金のバンタム≠ニ言われたブラジルの英雄を二度に渡り打ち合いの末に負かした。ボクシングファンなら、このブラジルのバンタム級チャンピオンがエデル・ジョフレであり、、八度の防衛をして、すべてKO勝ちだったことを覚えているはずだ。もちろん、若いいまのボクシングファンは知らない。
その原田氏をして、日本での再戦ではファメションの若さに圧倒され、13Rにリング外に弾き飛ばされるダウンで、引退への道を歩んだ。
確かに歴史は動く。

キャシアス・クレイ(モハメッド・アリにブラックモスレムに入り改名)が21歳でヘビー級チャンピオンになったとき、チャンピオンは誰だったか、思い出して見よ! 二度もヘビー級のチャンピオンになったフロイド・パターソンを赤子の手をひねるように倒した、熊と恐れられたソニー・リストンだった。しかし、21歳のクレイは持ち前のフットワークとスピードでリストンを圧倒し、7R終了で熊の戦意を喪失させた。
作戦通り「蝶のように舞い蜂のように刺す」を実践したのだ。さらにリマッチでは凄かった。1R半ばに蝶のように舞ったクレイは右ストレートをリストンのテンプル(こめかみ)に見舞い、蜂のように刺すワンパンチで決着をつけてしまったのだ。
私がWOWOW開局三周年記念の『モハメッド・アリ』スペシャルをビデオに撮り、それを繰り返し見るのは、アリを通じてボクシングの歴史を知りさらに世界史を語り、さらにアメリカ史を語る、物語の事実性に圧倒的な説得力を感じるからだ。しかもボクシングは人生そのものを語る。

大場政夫はチャチャイ・チオノイと5度目のタイトルマッチを迎えたとき、一ラウンドに2度もフライ級チャンピオンになったことのある、強打のベテランにいきなり右フックを浴び、痛烈なダウンをした。しかもダウンしたときに、右足首を捻挫する不幸が襲った。 しかし負けん気の強い大場は右足首の痛みをこらえて反撃をしだした。12Rを迎えたときは勝てるかもしれないという雰囲気を作り、勇敢に攻め出した。連打で二度のダウンを奪い、二度目の連打でチャチャイが背を向けたとき、レフリーは止めた。大場が5度目の防衛をした瞬間は、誰もが原田氏の再来を期待した。事実、大場はバンタム級転向も考えられていた。原田氏に継ぐ2階級制覇の伝説が誕生しうるボクサーだったのだ。
ところが、数ヶ月後、私より二つ年下の23歳の大場は、チャンピオンの夢のひとつのシボレー・カマロを手に入れたが、首都高速道路で事故を起こし、即死するという信じられないことを起こした。
私はテレビのニュースが信じられなかった。そこで、当時のガールフレンドに大場がいかに優れたボクサーであり、またこの事故が悲劇だったかを熱く語り、ボクシングのロマンはこの事故でさらに人生そのものを語ることを喋った。しかし、ゆめ、男は女にボクシングを語るべきではない。(後略)》

一はこのころ決まった彼女はいなかったが仕事先や遊び先の女性にボクシングを良く語ったことがある。しかし、その度に失望し「女にボクシングを語るなかれ!」を実感してきた。二十八歳というとき、あえぐような日常の中に、もがいていることを一はいつも感じ、その澱(おり)を吐き出すために、日記に書きなぐりぶつけていたのだ。
通し番号70頁かこんな具合だ。

とにかく、母との生活はバランス感覚がムヅカシイ。世相など気にするタイプの一ではないが、やはり彼女がいないのは面白くない。一月下旬になぜか奇妙な電車の会話をメモしていた。

《五十歳ぐらいのオッサンが七十数歳のおばあさんに席を譲った。その後、天皇について会話をしていた。会話というよりはオッサンの独断が多かったけれどわたしらの時分、天皇陛下は神さんと信じていたからね」
「ねえ! そうでしょう。ところがいまの子どもは天皇といっても全然知らない」
「あのおじん≠ヘなんや、としか思っていませんね」
「もう親父の権威形無しですわ」
「エライ時代に変わりましたなぁ! おばあちゃん!」》

 五十歳ぐらいのオッサンがどの程度の皇国史観の影響を受け、どんな戦前を過ごしたのかをわかる術もなかったのだが、一九七六年という時代はいわゆる革新勢力の一時代が終わりを告げ、保守反動の勢力が台頭していたことはオイルショック以後の景気停滞を見てあきらかと一は感じていた。オイルショックは日本のエネルギー政策が戦前と変わらないことを露呈させ、石油備蓄のない日本は根本的なエネルギー政策が求められ、第一次サンシャイン計画などで高松の塩田跡地などを使用しその、いわゆるいま話題になっている太陽光発電のメガソーラーの実験がスタートする一方、原子力発電が平和利用の名の下に、左右関係なく礼賛されだしたころでもあった。

一九七六年の春、秋田田沢湖神代にある田沢湖芸術村を訪ねた。春のわらべまつり≠フ参加である。そこで、愛ちゃんにであった。それは年頭に立てた、彼女をつくるという抱負を実現する予感で満たされた日々だったのだが、帰阪してからの悶々とした頭の中がすべて愛ちゃんの存在でいっぱいになる日々でもあった。

《わらべ祭りの出会いは大きなできごとでした。しかしわらべ座との結びつきではあるけれども、実はね、愛ちゃんです。愛ちゃんなくしてここまで惹きつけられることはなかった。問題は自分のわがままに慣れた環境からの転換をどう克服するかという課題だけだ。後はボクが後援会に留まるか、座員になれるかどうかの鍵を握っている娘(ひと)がボクを受け入れてくれるかどうかだけだ。「愛ちゃん」。大きな瞳の小さなひと≠なたはすでに恋人がおられるのでしょうか。ボクはそうではないことを神に祈りたい思いだ。あなたが支えになってくれるなら、いまの生活を整理して、ひとびとが人間らしい生活ができるような解放の闘いに参加することに何をためらうことがあろう。
「ある新聞記者がわらべ座は一種の解放区だという表現をしていました。わらべまつりに来てそのことを肌で感じることができました。ひとが解放されるとこんなにも表情が明るく豊だったのですね。ボクは資本の論理をの中にどっぷり漬かっているからつくづくそう思います」
「愛ちゃん!」
あたなと飲み干したビールの味は格別でした。誰かが冗談に言った三々九度が本当になればこんなに嬉しいことはありません。どうか田沢湖の透明な純青の水にボクのこころがうつりますように、
いささか少女趣味的に。》


 一は何度もいろいろなノートの断片に稚拙な恋心≠記した。実際自分史として残したのものは、彼女とのやりとりであり、機関誌『風の中旗(ちゅうき)』に残したわらべ座¢フ験であり、大阪府下の公演に際しての大阪支局でのひとびととの交流でだったのだが、そのこころのひだ≠ノはいつも石舞台の巨石が置かれており、一はその天井石や羨道からかすかに木洩れ日を感じて、すでにもがり≠フ石棺に入った死人だった。


《あなたはなにげなく言ったのでしょう。
「私が結婚したら、どれだけ多くの男を泣かすのか」
寄せ書きを見ながら……。
どうかお願いです。
同じ泣かすなら
ボクだけは除外してほしいのです》

 70頁以後の空白はそして今川支局への話となる。

>
posted by torayosa at 13:08| 兵庫 ☁| 自伝的実録風小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月18日

『ゆらいだら、薬膳』(麻木久仁子著 光文社)書評

ゆらいだら、薬膳 (ジェイブックス) -
ゆらいだら、薬膳 (ジェイブックス) -

「とうき≠セったかを中国留学していたとき、いっぱい買って帰った」という話を聞いたのは、麻木久仁子さんが宇陀市の薬草フェアに講演や薬草フェス目玉企画のパネラーとして招かれ奈良県宇陀市を訪れられたときだ。

しかし10月半ばとというのに生憎の台風の接近で風雨があり、しかも晩秋の寒さで、二日目の行事が中止になるという最悪の天候で屋外テント店は早々の店じまいを余儀なくされ、屋内体育館に入れば少し寒さはまっしではあるが、展示会場なども雨除け休憩場の様相になり、講演会場も地元のブラスバンドやフラダンスの余興が終われば、足早に帰る参加者いる様相になり、あちきと息子もよもぎ餅だったかを手に途中のコンビニで買った菓子パン手に講演が終われば早々と帰宅のシャトルバスに乗ることになった。

《とうき》は《当帰》と書く。薬草になるのは根というのをスマホで確かめ、家に帰ってから五弁の白い花の写真をカレンダーから選び掲げてみた。実はツムラ漢方のカレンダーを手に入れていたのは麻木久仁子さんが薬膳料理の教室やったりしていることをブログやInstagram紹介で知っていたからだ。
こんないきさつで、当日の講演された麻木久仁子さん話はもっと多くの方に知って貰えればいいな、と内緒で古いスマホで遠くから音を拾ってみたが、残念ながら雑音が多くてほとんど聞き取れなかった。


それから年が上げ1月末だったかに、薬膳の本を出版されるということをブログで知った。


『ゆらいだら、薬膳』という本の題名が著者麻木久仁子の心模様を正直に反映している、著者の素直な気持ちを読者に伝えたいという出版プロデューサーの意図とみごとにからくり人形のように組合わさっている。この本は著者麻木久仁子のタレント活動、書評などの読書フチ的な知的財産を持つ顔と違う、生きさまの劇(ドラマ)が詰まっている。

多くの言葉を費やす前に、著者が家族とどう向き合うかというときに、さる有名女性との三角関係が世間を騒がさせたときに、いつの間にか関西のニュース番組から彼女の姿は消えていた。いや、そればかりがHONZの書評氏として活躍しているようだが、テレビ番組に頻繁にでていた姿が消えていた。

あちきが意識して見ていた番組はくまモン美子さんモデルこと宮崎美子さんとのクイズバトルだった。宮崎美子さんはQさまに限らず、タイムショック特番でもその他の賞金のかかるようなクイズ番組でもいつも一歩先んじて優勝することが多かった。自他共に認める『知の女王』の称号で活躍するかたわらドラマや映画出演に加えて、BS11では『すずらん本屋堂』という大変なレギュラー番組をやっていた。実際に有名女優やタレントの第一線に名を連ねることが簡単でないのは、麻木久仁子をして、スキャンダルと脳梗塞と乳がんという病の襲撃により、流石に前進あるのみ、負けず嫌いに世間のスキャンダル何するものぞ、という思いがゆらいだようだ。

人間、病になると実際落ち込む。あちきの体験で言えば、母の認知症と末期胃がんの看病から解放され結婚、息子誕生、摂津から吉野転居と環境を変えることで新たな生き方を模索して、勢いにまかせて、自分がやれるかどうかを考えることそこそこに、季刊の吉野・飛鳥のミニコミ誌発刊を決めていた。

無謀でタイミングは悪いのは承知していた。吉野移転後にバルブが弾けた。吉野・大淀の大きな新興住宅の丘陵地はバルブの開発期に温泉地付きとしてさらに売り出しがなされ、開発会社は土地の高額買い戻しをすることがあったほどだ。それが吉野へ来て数年すると温泉地の泉源管理は疎かになり、臭い泥水が出てきていた。

隣家が引っ越しできた頃には、温泉泉源管理などまったく行われていず、管理会社の倒産が時間の問題をあちきにはわかっていた。集中浄化槽を下水道工事の本管につなぐ工事の費用は団地の積立金がたっぷりあり、問題なかったのだが、肝心のデベロッパーの会社が予想通り破綻して泉源が潰された。温泉付きは幻となり、いろいろな会社が叩き買いして住宅の密度は関電の50万ボルトの高圧線が中心街を通る北野団地よりは、落ち着いた環境になりいまに至るというのが実相だ。




この辺りのことはあちきのことなので、実はどうでもいい。この麻木久仁子さんの書評に実はあちきは大変お世話になっている。例えば、『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている』(早川書房)の書評を読み、この佐々涼子さんというルポルタージュの基本をキチンと書き込んだ本のおかげで自分史小説の中で十分に書くこともなかったいわゆる製紙された紙に包まれたしもた屋の企画制作部門に憧れて小さな印刷会社に就職した時の記憶が鮮明になった。また、皇国史観について麻木久仁子の『地図から消えた島々』の書評がなかったら、著者が長谷川亮一さんで、いま国会のデジタルライブラリーにある書物などの渉猟研究して、皇国史観の成り立ちについての研究成果の単行本にふれることもなかった。
読むこともなかった。








書き出せば次々とでてくるが、麻木久仁子が乳がんになった、といういわゆる闘病の過程で食事や薬膳料理にであう。自分の母親を呼び寄せ娘を見つめ直して鮮やかに薬膳料理の資格を習得のために本場中国まで行き、その甲斐あって薬膳の料理教室を開催したり、薬膳料理のInstagramやブログを発表しながら、術後経過5年を迎えご本人にとって、アラフィーの人生に薬膳料理という新しい柱がたち精神的には中庸のこころが宿り、『ゆらいだら、薬膳』という料理本に人生の健康と食の要点が詰まっているいるというのがこの本の素晴らしいところだ。人生の書が薬膳料理の真髄をやさしく伝える奥義は著者の知性をさりげなく輝かせているだけに、健康志向の奥様に限らず、男にとっても大切だと感じる次第。





ところで女性ジャーナリストで千葉敦子さんという方がいた。あちきはは母親が胃がんになったのこともあり著者のエッセイをたくさん読んでいた。そして『「死への準備」日記』を『週刊朝日ジャーナル』に書き続け絶筆された。あちきの母が6月25日に亡くなって二週間後の7月9日だった。

麻木久仁子さんの乳がんとのおつきあい状況については、

自分の状態を知る、
ということ

にまとめられている。彼女をして「身もこころもボロボロだったあのころ」という思いを読むと、「ゆらいだら、薬膳」の薬膳ルール4箇条を思いだす。

1どんな食材も薬膳になる

2「体にいい」は体調や季節で変わる

3迷ったら五色の食材≠意識する

4お茶を飲むだけでいい



ひとは病を避けられない。あちきが境界型糖尿病になったのは自分が選んだ仕事とはいえ、吉野と大阪、西宮の掛け持ちは自分を痛めすぎたからだった。人生50年織田信長にならい親父の年まで生きられたらと覚悟を決めたのは95阪神淡路大震災が起こり、仕事環境がボロボロ出版企画は球団の紛糾低迷で売れず儲からず、人手確保にがっかりが加わり、入院後は激ヤセ、検査で疲れて五十肩と腰痛治療に箕面まで通い、もはやこれまでと思った命が実は膵臓がんではなくて、バセドー病根拠の痩せ止まりしない、原因わかって開き直った。で、自分の意志で転院の大正解。

ということで、あちきは友人は去ったが愛する女性がいるのでなんとか70年生きている。落語の「らくだ」はふぐの肝喰ってふぐになくなるが、あちきは人生を遊ぶことで死ぬまで生きることになる。かの昔読んだ千葉敦子さんは『死ぬことは、よく よく生きる ことだ』というひそみにならいたい、という願望は少しはある。

参考までにわたしが麻木久仁子さんモデルの小説を試み届けているのは、語弊があるかもしれないが、共にボチボチ休むことも大切だということを僭越にも感じて、書評に触発された「ありがとうございます」というのが偽らざることでありんす。


ところで本日ダ・ゾーンで放映されたダニー。ガルシアとブランドん・リオスの試合で9ラウンドにダニー。ガルシアが得意の左フックをかわされたときに相手の左のロングフック気味のパンチが飛んできたとき、その打ち終わりを掠めて右ストレート左のジョーにい打ち込んだ威力はガルシアスーパライト時代の切れないのかな、と思っていたときだっただけに気持ち良かった。こういうことがあるからボクシングファンをやめられない。


松本亮や軽いクラスの山中などの試合やSuperfly級や、我らが山中慎介のカムバック試合がり、来週からはサッカー観戦もあり目が離せないことになり、羽生結弦の66年ぶりフギュア金メダル連覇や宇野昌磨との金銀受賞とかスノボードパイプの平野歩夢の惜しい銀メダル連覇など盛りだくさんな平昌冬季五輪も終わるので、安室奈美finally公演は昨年11月8日からいろいろな応募チャンスのためにできる努力はしたが全てハズレ、これも人生。

潔くサッカー観戦とボクシングと落語にシフトして、当分はその流れに乗る予定だ。

DCr2-acUMAYB9WT.jpg

訂正 追記 ボクシング事情のその後は過激展開だ。ネリとの再戦で山中慎介は体重超過のまま対戦して惨敗KO負けで正式引退を表明した。「神の左」当てる前に右ジャブでダウン寸前に追い込まれるなど、1Rからのダメージは2Rにも回復しなかった無念! ネリの確信犯体重超過は日本ボクシング界追放でいいだろうが、悲しい結末ではあった。しかし、岩佐がなんとか初防衛に成功! あとに軽量級ボクサーの世界戦もある。しかし、飛鳥の蘇我4代にまつわる古墳散策の途上に、ボクシングのWBCヘビー級の試合があったので、山中慎介のおあわりだじゃないが小山田古墳や菖蒲池古墳などは後から行ってもいいのだ、とWOWOWオンデマンドをスマホで見た。

いや驚いた。いつもはそっぽむく息子もなぜか小さな画面に集中している。途中で電波不良もあったが、いやワイルダーとサウスポーオルチスの対戦は盛り上がったな。

5Rにワイルダーのショートレンジのストレートであの頑丈なキングコングオルチスの巨体がたたら踏んで浮き上がった。そして追い打ちでダウン。さすがワイルダーの右ストレート、この日はそれも間合い積めた一瞬でのショートレンジからのストレート。

ま、ここで興奮できないのが7R今度はオルチスが左フックカウンターでワイルダーをぐらつかせ猛攻でロープに追い込みダウン寸前、しかしクリンチでワイルダーはなんとかこらえる。

8Rは攻撃したオルチスも疲労困憊で攻めるジャブが浮足立ち、ワイルダーはとにかくダメージ回復に努める。9R除々にダメージ回復したワイルダーが左ジャブから組み立て終盤に右ストレートでオルチスを追い込みオルチスも応戦でさらに盛り上がる。

しかし、結末は10Rの序盤にやってきた。オルチスのスタミナは切れていた。そうなるとワイルダーは猛攻で最初のダウンを奪うと立ち上がったオルチスにバスケット選手の素早さで追い込み接近して頭を下げたところに右アッパーカットを突き上げてすべては終わった。オルチスは崩れ、レフリーは瞬時にストップ、録画で何度見たがあのワイルダーの破壊力ある右ストレートは半端ない。ジョシュアというロンドン金メダリストが三団体統一試合をする。その結果次第でワイルダーとの対戦が予測される。

そのような状況で井上尚弥のバンタム級挑戦試合が決まった。いや、マグドネル10年間無敗で長身選手とはいえ、前評判はホームアドバンテージある井上尚弥の圧倒的有利。しかし油断禁物。というような最中、あちきは黒岩重吾の『落日の王子』再読の日々、この小説は中臣鎌子(鎌足)は中臣御食子(なかとみのみけこ)の養子説。読んで鎌足の深慮遠謀の深さに中大兄皇子や大海人皇子との壬申の乱につながる古代史を吉野大淀で俯瞰するという次第。
落日の王子―蘇我入鹿 (上) (文春文庫 (182‐19)) -
落日の王子―蘇我入鹿 (上) (文春文庫 (182‐19)) -

斑鳩王の慟哭 (中公文庫) -
斑鳩王の慟哭 (中公文庫) -
いやそれにしても最近は見瀬丸山古墳ではなく五条野丸山古墳と呼ばれている丸山古墳の再調査すべきではないかと実感する。近くの五条の植山古墳は着々と古墳公園になりつつあるが、丸山古墳は宮内庁の陵墓参考地ということで、92年の盗掘孔から子どもが入り親が墓室を撮影した写真が報道さ、ニュースステーションで久米宏さんがCG映像で大騒ぎ報道下にもかかわらず、盗掘孔は埋め戻されその後の調査はされていない。あの石室の奥には、推古の母親の堅塩媛(きたしひめ)の追墓で石棺が収められているというのにな? ということは黒岩重吾氏が『斑鳩王の慟哭』で記すように、この墓が欽明天皇陵の可能性が高い。しかし宮内庁は800M離れた梅山古墳に比定している。

もちろん蘇我稲目の墓などの説はありえない。都塚の方が可能性がある。ま、小山田古墳なども明日香養護学校の校舎改築でみつかり最近の調査で70Mの方墳とわかったということですから、飛鳥の考古学が現在進行形で事実は小説のようになる? というわけだ。

posted by torayosa at 18:01| 兵庫 ☀| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想8)

DSC_5697 (640x401).jpg

日本ボクシング界の軽量級世界チャンピオンがここにきて量産され、まさかが起こる日々昨日には木村翔(あちきは存在すら知らなかった)が上海でトップランクから独立した鄒市明(ゾウ・シミン)に11回にTKO勝ちしたというニュースが飛び込んできた。

おおかたの予想はピークが過ぎたとはいえ、技巧派のチャンピオンが勝つという予想をしていた。群雄割拠とはいえ軽量級は日本バルブの様相でここ数か月の間に4団体あるチャンピオンの全団体を支配する可能性さえあったことを思うと、チャンピオンになるのはどうしても階級によっては軽さ≠ェ感じざるをえない。

そして同じ日にスーパーフェザー級の魅力的なWBC元チャンピオンの三浦隆司がブログで引退を表明した。「ボンバーレフト」は一撃必殺の威力であり、ひと足先にWBAのチャンピオンになった内山高志との「KOダイナマイト」防衛戦では3回にボンバーレフトでダウンを奪い序盤を支配した。しかし、内山高志は右手を痛めたことを隠し左ジャブ、ストレートを的確に当て反撃して、三浦隆司の顔面の両目を腫らすダメージを与え続けた。右に加え左も強いというまさに「ノックアウト ダイナマイト」の異名にふさわしい激闘で強打のサウスポーを8ラウンドで終了TKOしたのだった。


その後三浦隆司は横浜光ジムから帝拳ジムに移籍して海外での王座奪取に加えて、その実績は海外試合においてもボクシングファンを集客できる存在となり、ベルチェルト戦ではメーンエベントで登場してWOWOWで生中継された。


66 井岡一翔 日本 2011年2月11日 - 2012年6月29日 (返上)
2012年6月20日 - 2012年10月5日 (返上)WBC世界ミニマム級 三度防衛

2012年12月31日 - 2014年2月28日 (返上) WBA世界ライトフライ級三度防衛

2015年4月22日 - 在位中
WBA世界フライ級 四度防衛

69 山中慎介 日本 2011年11月6日 - 在位中 WBC世界バンタム級 十二度防衛

77井上尚弥 日本 2014年4月6日- 2014年11月6日 WBC世界ライトフライ級(返上)一度防衛
2014年12月30日 -在位中
WBO世界スーパーフライ級 五度防衛 1

78 田口良一 日本 2014年12月31日 - 在位中 WBA世界ライトフライ級  六度防衛

79 田中恒成 日本 2015年5月30日-2016年4月7日WBO世界ミニマム級(返上)
2016年12月31日 - 在位中 WBO世界ライトフライ級 一度防衛

81 小國以載 日本 2016年12月31日 - 在位中 IBF世界スーパーバンタム級

82 福原辰弥 日本の旗 日本 2017年2月26日 - 2017年4月11日 WBO世界ミニマム級 (暫定)(正規王座に認定)
2017年4月11日 - 在位中

83 久保隼 日本 2017年4月9日 - 在位中 WBA世界スーパーバンタム級
84 拳四朗 日本 2017年5月20日 - 在位中 WBC世界ライトフライ級

85 比嘉大吾 日本 2017年5月20日 - 在位中 WBC世界フライ級

86 京口紘人 日本 2017年7月23日 - 在位中 IBF世界ミニマム級

87 木村翔 日本 2017年7月28日 - 在位中 WBO世界フライ級


白井義男はフライ級の王座を取ったのが1952年5月だから2017年7月で65年を数え4団体になってからの世界チャンピオンバルブは凄まじ勢いでWBOフライ級Champ木村翔の誕生で87人目となった。

しかしボクシング界の活況は喜ばしいことではあるが、多くの世界チャンピオンが誕生したとはいえ、かつてのファイティング原田の二階級制覇や西城正三のようなシンデレラ海外でのチャンピオンが誕生したときのような活況かどうかというと疑問を持たざるを得ない。

つまり軽量級はまるで日本タイトル戦のように暫定王者が誕生しそれが正規王者になるという経緯もあり、世界タイトルマッチが軽くなる傾向にあることは否めない。こういう背景を理解したうえで、フライ級では木村翔を含めて三団体のチャンピオンが誕生した。WBAの井岡一翔5度防衛しているがライトフライ級では当時の最強であることをボクシングファンなら知っていたローマン・ゴンザレス戦から逃げた。その一方でローマン・ゴンザレスは帝拳や大手プロモーターのパウンド・フォー・パウンドの評価を得てミニマム級からスーパーフライ級まで四階級制覇をした。初防衛戦では躓いたがその実力は高く評価され9月3日にはスーパーバンタム級のスター候補たちがつどうマッチメークが組まれている。そこに日本のスーパー軽量級の二階級制覇チャンピオンの井上尚弥(大橋ジム)が満を持して海外防衛戦デビューをする。

井上尚弥の強さはスピード、パワー、フットワークのすべてにおいてローマン・ゴンザレスに勝るこそすれ劣るものはないといわれる若さと勢いがある。5月21日のスーパー2dayの世界タイトルマッチではKOで完璧なディフェンスで打たれないで倒すという強さを見せつけた。(2017年5月21日、有明コロシアムでWBO世界スーパーフライ級2位のリカルド・ロドリゲス(アメリカ)と対戦し、3回59秒でTKO勝ち)

あちきはこの2日間の世界タイトルマッチ5試合を有明コロシアムで生観戦したが、比嘉大吾(白井具志堅ジム)が前日軽量失敗でタイトル剥奪されたエルナンデスに(6回2分58秒TKO)勝ちし白井・具志堅ジム悲願のWBCフライ級チャンピオンになった。

その尖兵として拳四朗がWBCライトフライ級チャンピオンになり、メーンの村田諒太がエンダムとの対戦で不可解な判定で負けるということがあり、また翌日のライトフライ級世界団体制覇の勢いだったのだが八重樫東は1ラウンドKO負け。結果敵にのちに6度目防衛戦を控えていた田口良一(ワタナベ)の闘志に火がつきスロースターターの田口が一ラウンドからボディ打ちで変則スイッチ攻撃のロベルト・バレラとの打ち合いでも圧倒し9ラウンド早々にTKO勝ち6度目の防衛を果たし、試合を見届けたWBOライトフライ級田中恒成との日本人チャンピオン決戦をお互いがリングに上がり宣言した。マッチメークが実現するかどうか注目されている。その前提として田中恒成はWBO2度目の防衛戦が9月に決まっている。
(2017年9月13日、エディオンアリーナ大阪でWBO世界ライトフライ級13位のパランポン・CPフレッシュマートと対戦し、WBO世界ライトフライ王座の2度目の防衛を目指す)

今夜奈良テレビで映るかどうか不明だが内山高志の正式表明があるという、既に引退の報道が先行しているがそうなるとスーパーフェザー級の強力KOパンチを持つ二人の元Champがグローブを吊るすことになる。

さて、WBAフライ級王者の井岡一翔は目の上のたんこぶのスーパーChampのファン・フランシスコ・エストラーダのスーパーフライ級転向により、誰ととやるかをさらに問われることになった。これからも安全運転防衛に走るのか、それとも具志堅用高氏も提唱する連続KO記録を持つ比嘉大吾(白井・具志堅ジム)のとの統一戦を組むかどうか?(13試合13勝13KO) 

あちきは8月15日の島津スーパーアリーナでの山中慎介13度目の防衛戦を観戦予定だ。島津アリーナ京都では、(2016年3月4日、島津アリーナ京都にて元WBA世界スーパーフライ級王者でWBC世界バンタム級3位のリボリオ・ソリス(ベネズエラ)と対戦し、2回に右フックでダウンを奪うが3回に2度のダウンを奪われあわやストップ寸前まで追い詰められる波乱の展開になった。しかし9回にスリップ気味のダウンを奪い返し、ソリスに連取された3回と4回の失点に留め、12回3-0(3者とも117-107)の判定勝ちを収めWBC世界バンタム級王座の10度目の防衛に成功)だったのだが、3ラウンドの2度目のダウンは生観戦していて、止められるのではないかとヒヤヒヤしたものだ。で、よこの女性にこういう展開ではダメージの回復を計りながら勝つしかないと解説しながら無理なKO狙いは避けてポイントアウトが大切といいきかしながら観戦したものだ。しかしなまじっか右フックでダウンとったことで場内が早すぎるという空気が支配したところでの大ピンチ、油断大敵を実感した。

WBC世界バンタム級1位の指名挑戦者ルイス・ネリ(メキシコ)は若くて強打のKOパンチを持つ。相手にとって不足なさすぎ。余計なパンチをもらわずに神の左でKO勝ちすれば、世界も注目する。山中慎介は強い相手と常に戦ってきた。

2016年9月16日、エディオンアリーナ大阪でもWBA世界バンタム級スーパー王者でWBC世界バンタム級1位のアンセルモ・モレノと11ヶ月ぶりに再戦し、7回1分9秒TKO勝ちを収めWBC世界バンタム級王座の11度目の防衛に成功、リングマガジン同士認定王座獲得にも成功した(ウィキペディア)


とにかく、初防衛戦に危険な相手のビッグ・ダルティニアンをもってくる帝拳は時代のニーズを理解しマッチメークにも大きなリスクを取ることがある。8月末には亀海善寛があのといわれるビッグネームのミゲール・コット対戦することになっている。

8月26日(日本時間27日)
カリフォルニア州カーソン スタブハブセンター
WBO世界スーパーウェルター級王座決定戦

元4階級制覇王者
ミゲール・コット(プエルトリコ/ 36歳 / 40勝(33KO)5敗)
 VS.
亀海喜寛(帝拳/ 34歳 / 27勝(24KO)3敗2分)





日本のボクシングファンなら知らぬものはいないプエルトリコの英雄との王者決定戦だ。勝てば海外を主戦場にしてきた亀海善寛の世界が変わる。

このひと夏の日本ボクシング事情も緊張の夏ならぬ金鳥の夏、日本の夏が続くな。その前に今夜は大阪ダービの行方が気になる。












追記 内山高志が引退記者会見をした内容をBS7がフォローしていたので録画していたので見た。会見のときは黒いスーツだったが番組で三つ揃えの薄いグレーに少し花やかなピンク系のネクタイで登場した。昔なら輪島功一さんが25歳という遅いデビューから、カエル飛びの奇策でカルメル・ボッシという女好きのイタリアChampを翻弄して勝ちいまでいうスーパーウエルター級の世界チャンピオンになった。4度目の防衛戦はあちきが7年間勤めた会社の退社の日に送別会が行われ出席した日に大阪府立体育館で行われていた。あちきは江戸堀と土佐堀付近にある徐園で豪華な中華料理に囲まれて退社の日を迎え中継が始まるころには気になってトイレに立つ度にテレビ中継のあるところを探し覗き見したものだ。もちろん当時録画などできる環境はない。
239248168088202.jpg
テーブルでは酔っ払った企画部の連中があろうことかみかん投げを始めるなど大荒れ模様、あちきは上司から寄せ書きの本を頂戴してその本は亡くしていまは手元にないが、あちきの未来を暗示する言葉やイラストやコラージュや写真が散りばめられていて、確かにあそこに貼ってくれたモデル撮影会の写真の自分の表情は未来になにが待つかまったくわからなかったが、辞めるという決意だけがあった。

六度防衛後、オスカー・ショットガン・アルバラードには15回KOされた。しかし輪島功一が不屈の闘志だったのは、KO負けして家でのたうち回る日々、伴侶にぶざまな痛々しい姿をさらしながも、オスカー・ショットガン・アルバラードに勝つ秘策を練っていたというのだから、常人にはわからない。オスカー・ショットガン・アルバラードは初防衛戦で輪島の宿敵の龍反町をKOしていた。その輪島功一が1975年1月に日大講堂で再戦、なんと不利の予想を覆しなんとか3対0の判定勝ちで王座に返り咲いた。そして、まだ輪島功一物語はつづく。1位の指名挑戦者柳済斗戦だった。体格的にも圧倒する柳は五回にゴング後パンチを放ち輪島ダウン。普通ならそこで輪島不本意の反則勝ちとなるところだが、そのまま試合は続行された。輪島功一はそのダメージが残り7回に左右フックでKO負けした。

今度こそ引退かと思ったらそのときもダメージで家でのたうち回りながら、どうしたら勝てるか秘策を練っていたというのが輪島功一だった。三迫会長もよく再起の機会をつくったものだと思うのだが輪島功一の執念は想像を絶するものだった。柳は三迫を簡単にKOして初防衛していた。輪島功一の挑戦は無謀に思えた。しかし輪島知恵者だった。記者会見でマスクをするなど柳済斗陣営に汲みやすしのスキを与えた。

そして迎えた試合は8カ月前に負けた相手に油断させる作戦がはまり輪島功一はスピードと手数でチャンピオンの強打を空転させたのだ。そして迎えた15回に輪島功一KO勝ちして三度すでにWBA世界j・ミドル級チャンピオンに返り咲いたのだ。その後の輪島功一はさすがに年齢的衰えは隠せなくなった。スペインのホセ・デュランに14回KO負けした。一年間のブランク後エディ・ガゾ戦は惨めな11回タオル投入されるKO負けだった。輪島功一物語の終焉がきたのだ。

あちきは1973年4月20日 土佐堀徐園の店で後年美味しい昼飯を食する機会があるなど夢考えたことがない、その後の人生があったのだった。ボクサーよファイティング原田や具志堅用高ように潔く引き際を選ぶのもよし、辰吉丈一郎のように何度も網膜裂孔や網膜剥離という怪我にあいながらも再起するもよし、八重樫東はそっちを選択したそうだが、自分の人生は自分で決めるのが一番悔いが少ないのではないだろうか。

いま、日本に乱立気味のチャンピオンは内山高志や三浦隆司が述べていた「世界チャンピオンになると景色が変わる」ことを少しずつ実感しつつあることだろう。スーパーバンタム級はリゴンドーという不人気チャンピオンが君臨する周辺でノリト・ドネアが防衛に失敗する波乱の様相。小國と岩佐の試合は生観戦するつもりだが(都合で結局テレビ観戦)、さて小國は得意のボディブローで岩佐を圧倒できるかどうか、岩佐はここで転けると当分チャンスはないのではないだろうか。久保隼も同時期に初防衛戦するという。初防衛戦の難しさは常に言われてきてきた。その季節に海外ではスーパーフライ級の強豪たちの共演がある。ここに将来亀田和毅が割って入る機会が来るかどうかは協栄のマッチメイク次第ということなのかな?

もちろん主役は再戦のローマン・ゴンザレスであり井上尚弥6度目の防衛戦であり、エストラーダ対クアドラスの対戦である。


しかしローマン・ゴンザレスはシーサケット・ソー・ルンヴィサイに再戦でKO負けして一歩後退した。つまり井上尚弥のこの階級で標的はシーサケットかアンカハスというタイ・フイリピンの両Champになったのだが、その前には年末の防衛戦をいい形でクリアして、SUPERFLYデー2のイベントに参戦することが先決になった。そこではフランシスコ・エストラーダがシーサケット・ソルヴィンサイの指名挑戦権を獲得しているので、井上尚弥はマニー・パッキャオの弟子にあたるアンカハスとの統一マッチが期待されている。

村田諒太のエンダムTKOでのWBA正規王者誕生! 帝拳のSUPERフェザー級の 尾川 堅一 のラスベガスでの王者決定戦とに加えて井岡一翔のWBA正規王者のベルト返上など相変わらずボクシング業界の話題は尽きないが、年末の大晦日決戦の主役はワタナベジムの田口良一が浮上! 実際勝負の世界も人生も一寸先は闇、比嘉大吾の初防衛をクリアし木村翔の初防衛戦の期待も高まる中、本当の意味でのファイティング原田に代表される世界に名を知れるチャンピオン誕生なるか? その最先端に井上尚弥や村田諒太が浮上したのは間違いない。そして、ドーピング問題の不可解WBC会長裁定があったが、生観戦でタオル投入によるレフリーストップで13度目防衛戦に失敗した我(神の左)を持つ男山中慎介が再起のダイレクトリマッチが浮上した。今度こそはドーピング野郎のネリのスピードに合わさず、右ジャブで距離を取り神の左のカウンターでKOしていわいゆひとつのドーピング野郎のケリをつけることを願うしかない。

幸いダメージはなかったのでジムワーク再開も動機づけができて順調ときく。

あの島津アリーナでの山中慎介の屈辱はリベンジするしかない。

*このブログ中のTwitterの木村翔の団体名はWBOです。お詫びして訂正します。
ついでに追記誤字誤植を直しました。井岡一翔は5度防衛でした。
posted by torayosa at 13:26| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月24日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想7)








原田政彦ことファイティング原田は本名でボクシングすることを知られるのが恥ずかしかったというシャイな側面があった。その誰もが親しみやすい個性が人の良さまるだしであることも確かで、わたしが大阪太融寺のスナックに通っていたころ40前に、オーナーはファイティング原田氏のエピソードを良く聞いたという。そのボクサーとしての誇りは東亜ファイティングジム経営者になっても変わらず、酒の席での用心も万全で、現役時代の常で節制的だったという。

DFd4seUXgAAJXmL.jpg

減量苦もありポーン・キングピッチとのリターンマッチに負けるとバンタム級に上げて再起をはかり二階級制覇をめだす。最初の壁になったのはバンタム級にあげていた関光徳を「ロープ際の魔術師」の異名でカウンターでKOしたジョー・メデルだった。ジョー・メデルはメキシコのバンタム級選手としては特異な存在で、カウンターの名手だった。相手を誘いときには下がりロープ際に詰められたフリをして、カウンター一発で状況を変え相手を倒すというボクシング技術に長けていたのだ。

バンタム級の上位ランクになりジョー・メデルには完敗のKO負けをした。ファイティング原田は自分をふりかえり、まだ十分にバンタム級のパワーに対抗しうる基礎体力がないことを痛感してパワーアップと持ち味のラッシュをつづけるスピードの両方を磨くことに専念した。

1965年5月18日の愛知体育館でのエデル・ジョフレへの挑戦だった。当時のエデル・ジョフレ(ブラジル)は黄金のバンタム≠フ名にふさわしい成績だった。17連続KO勝ちで8度防衛。その中にはジョー・メデルを2度KOの記録もふくまれていた。

ファイティング原田がバンタム級転向後パワーアップしてその速さとスタミナを倍増していたとはいえ、多くのファンはミスマッチではないかと危惧した。事実、青木勝利は1963年4月に蔵前国技館に来日したエデル・ジョフレに3回にKOされており、日本中のボクシングファンはその強さをテレビの前で知らしめられた。

あちきの家にも白黒14インチテレビはすでにあり、居間兼座敷の床の間に置かれたテレビを見てそのシーンを蘇らすとエデル・ジョフレの強さを見せつけられ天才ハードパンチャーのフライ級三羽烏で売り出していた青木勝利の練習嫌いでは相手にならなかったことを実感したものだ。

当時の青木勝利は20歳。しかも一度の負けしかない。36勝21KO1敗1分の好成績だったので天才といわれていたのだ。

1960年6月6日、プロデビュー。1961年4月5日、海老原博幸と対戦し、2回KO負け。キャリア18戦目での初黒星となった(16勝1敗1分)。

1962年10月29日、東洋バンタム級王座に挑戦。王者米倉健志を破り19歳で王座獲得。この試合で海老原戦以降20連勝を達成。

1963年4月4日、蔵前国技館で世界バンタム級王座に挑戦。王者エデル・ジョフレ(ブラジル)に、ほとんど鍛えていなかったボディを狙われ3回KO負け。1962年に現地で出版されたエデル・ジョフレの伝記の再版が1979年に発行された際、その表紙でこの試合の写真が使われた[1]。1963年9月5日、東洋王座初防衛戦。カーリー・アグイリー(フィリピン)に9回KOで敗れ王座陥落。(ウィキペディア)


「ジョフレの鋭くえぐった左フック、レバー打ちで、メガトン・パンチ≠フ青木が悶絶した。」(1945年〜1985年 激動のスポーツ史)ボクシング特集ムックボクシング編

ラッシュをかけて圧力をかけようとしたが青木はジョフレの防御技術の前に簡単にさばかれた。

そして3回、クリンチ際からのジョフレの左で青木はダウン。

再度おなじパンチをボディに浴び青木勝利は沈んだ。ジョフレ6度目の防衛は、
「天才、青木を軽く料理したジョフレの強さは圧巻だった」ボクシング特集ムックボクシング編(1945年〜1985年 激動のスポーツ史)が戦況を短く伝える内容はあちきの脳裏にも植えつけられたものだ。


しかし8度防衛して17連続KO勝ちのエデル・ジョフレは自信満々の来日だった。

ノンタイトル戦ではバンタム級に復帰したあおの矢尾板貞雄のボクサーファイトに苦戦したこともあったが10回にはKO勝ちしている。

大方のの予想を上回ってファイティング原田一ラウンドの開始早々から攻めた。風車の回転の速さにパワーも加わり4ラウンドには王者ジョフレをKO寸前にまで追い詰めた。テレビ朝日『ザ・インタビュー』では当時の映像が映しだされた。実際ファイティング原田のラッシュは凄まじいパワーアップだった。原田会心の右アッパーからラッシュはKO勝ちするかの勢いだったことを改めて呼び起こした。

しかし、5Rになるとジョフレの反撃が始まった。ファイティング原田は強引はジョフレの連打にクリンチで耐えた。そして試合は一進一退のあと15ラウンドまで闘い小差の2対1の判定勝ち。3分けで負けたことがないジョフレはそのファイティング原田を賞賛すべく抱きかかえて祝福した。そのスポーツマンシップに65%の視聴率だったという日本国中のファンも感動した。

判定 エドソン71対72 原田●
   加  藤72対70 原田○
ロ  ス71対69 原田○

(当時は5点制 5対5引き分けがあった。現在の10点制マストシステムとは異なる)

再戦のリターンマッチはファイティング原田がイギリスビートルズカットのアーティストのアラン・ラドキンを迎えてから後のことだった。1965年11月30日日本武道館で行われた。当時、ビートルズ・ブームが日本でも起りアラン・ラドキンスの来日はビートルズを迎えるような雰囲気だったのを懐かしく思いだす。

http://tsugu.cside.com/b-ken/history2/1966a.html

1ラウンドにダウンを奪ったファイティング原田はKOこそ逃したがビートルズ来日前のイギリスの技巧派を圧倒しての判定勝ち初防衛をして、エデル・ジョフレとの再戦を迎ええることになった。


1966年5月31日日本武道館でのことだ。あちきは就職して、その日は寮で無理をいって見せてもらった。内容は成長して自信をもったファイティング原田が序盤からラッシュ戦法で攻勢を続けた。ファイティング原田のボクシング中継はテレビ中継すれば60%にまで達するコンテンツの時代新人のあちきがボクシング好きで残業当たり前の仕事を中断して見せてもらえるのかどうか心配だったのだが、上司や寮生も見たかったので、そのことが許されのだった。家に帰るのいつも終電前後があたりまえだったので、家で見ることはできなかったのだ。ファイティング原田はまだ23歳だった。

戦評をみてみよう。

「原田のラッシュ戦法が再び競合ジョフレを打ち破った。タイトル奪回を目指すジョフレと原田は序盤から打ち合いを展開。5回に原田の右ストレート2発からジョフレは守戦一方10回には逆にジョフレの右フックで原田が泳ぐといった好打の応酬が続いた。6回にバッティングで左目を切っているジョフレは、終盤に入って衰えが目につき始めた。14回、原田は激しい左右連打でジョフレをロープに釘付けにして決定的にポイントを奪った。

採点 羽 後71対69  原田○
   ポップ69対68  原田○
手 崎71対68  原田○


以後、5度目の防衛戦でまさかの新鋭のライオネル・ローズに判定負けするのだが…続きは次回に。


DCr2-acUMAYB9WT.jpg
CxhtZ8WW8AAOFdx.jpg thumb.jpg

CtxDJLsVYAARlbp.jpg thumb.jpg
posted by torayosa at 12:18| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月22日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想6)

DSC_5697 (640x401).jpg

ファイティング原田が先日テレビ朝日の「ザ・インタビュー」に出演してインタビューア嶌さんに応じている。






フライ級三羽烏のライバルからまず抜け出し、フライ級でパスカル・ペレスにKO勝ちして新世界チャンピオンになった当時のポーン・キングピッチ(タイ)に挑戦したのはわず19歳だった。

「勉強しろとか、なんとか口うるさく言わないオヤジだったけど、これだけは、いつも言ってたよ。男の生き方というのは、勉強して学者になるか、金を掴むか、栄光を掴むかだって…」(『チビのオレにもやれる』入江和夫)の名文が蘇るマー坊の人生はまさにテレビ中継創世記から伝説をつくりつつあった。

米屋のアルバイトしながら植木職人の父の教えに習い自分の得意の分野を見つけてその世界の一番になり栄光を掴む、という言葉に忠実に従いたまたま世田谷深沢にあった笹崎ジムの前を通り自分は要領もよく喧嘩も小さい体ながら強く、これだとボクシングジムに入った。なんのためらいも疑いもなかったという。米屋では当時一俵60キロあるという米を担ぐことで足腰を鍛えた。加えて本格的なロードワークは20キロだったという。その基礎体力が三羽烏の青木勝利や海老原博幸の一発のパンチ力はなかったものの、無尽蔵なスタミナのg源泉になり原動力のラッシュする回転の止まらない戦法を生み出した。

実際、そのザ・インタビューで昔の映像を振り返るとキングピッチを11RKOしたときのラッシュぶりは凄まじいの一語に尽きる。88発。

ポーン・キングピッチの試合運びの巧さは関光徳のサウスポーの強打を封じ込み、野口恭を巧打で簡単に退けていた。

突然の矢尾板貞雄の引退があり、ファイティング原田は19歳で挑戦の機会を得たのだ。わずかボクシングを初めて3年余り(ジムの入門費を貯めて入会して四年半後)。新人王戦で海老原博幸や青木勝利に得意のラッシュ戦法で勝ち若手フライ級のホープになった、若いファイティング原田に幸運がきた。

11Rのダウンシーンは逃げても逃げても打ち込まれるパンチのラッシュに耐えきれられなくなったポーン・キングピッチがコーナロープに座り込み10カウントを数えられた姿が再現されていた。1962年10月10日まだ我が家にテレビがなかった時代、あちきは針中野温泉(当時のスーパー銭湯)で蔵前国技館で行われたその試合を多くの大人にまじって見た。

当時は実践で強くなるマッチメーキングが組まれていたので原田はこの試合で28試合27勝11KO1敗の成績になった。

リーターン・マッチはタイで行われた。三か月後の翌年の1月12日タイ・ナショナルスタジアムで行われ、原田は八回にダウンを奪うなどまた、ポーン・キングピッチがダウンをしたと思ってもスリップにされるなどで終盤にキングピッチの反撃を許しストリップデビジョンの1対2で初防衛に失敗してしまった。

原田はそのときのことをインタビューで「明らかなホームタウンデビジョンですよ。倒してもスリップにすちゃうんですから…」と語り、実は太りやすい体質で減量が過酷だった話を披露した。

「あしたのジョーの力石の減量シーンあるでしょう、あれ、ぼくのことですよ。あの力石は洗面所やトイレの戦出ないように針金で動かなくなってますけど、ぼくは元栓閉じられてました」

と語り15キロの減量はなんとかできたけど20キロとなるととても無理ですから、とバンタム級に移し、まさに世界のバンタム級チャンピオンになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%8E%9F%E7%94%B0(ウィキペディア)

(つづく)この記事を明日の田口や京口に捧げる。現在の軽量級は競技人口が少なくしかも4団体もありチャンスがアリすぎる。しかしそれでもローマン・ゴンザレスや井上尚弥や井岡一翔や山中慎介や三階級制覇の金字塔の長谷川穂積や内山高志や三浦隆司になるチャンスがごろごろしている。田中恒成に拳四郎に小國以載に久保隼、加えてフライ級比嘉大吾。

格闘技の行き先は最後はファイティング原田氏が好む「根性」になるかもしれないが、その前提としての練習や鍛錬、食事管理にボクシング技術の向上は大前提にある。つまり科学的トレーニングとメンタルトレーニングを裏付ける基礎体力、ファイテング原田氏がこじ開けた世界がもっと大きく開かれつつあるボクシング界の発展に興味を持ちつつ。

そして、戦後民主主義のために朝鮮戦争があり、朝鮮半島は民族分断があり、日本のなかの外国の沖縄返還協定の闇があったことを比嘉大吾(白井具志堅ジム)Champは忘れないでもらいたい。


以下の文章は戦後民主主義の様変わりをあちきの尊敬する鈴木武樹の記述から語る準備中の書き出しです。


鈴木武樹教授は戦後の新生中学校の第一期生ということで、戦後の国民学校の先生が体制が変わるとみごとに「鬼畜米英」と教えていた先生が

《「新制中学が九月一日に始まると「アメリカ軍は正義の軍隊で、日本の軍隊こそ鬼畜生だったのだ」といったようなことを言いはじめているではありませんか。で、わたしたちは彼らのそういったところを見てしまっていましたから、国民学校から持ちあがりできた教師たちには、もう八月十五日以前には先生方はなにを教えていましたかと言ってやれば、それだけでもう彼らはぐうの音も出ませんでした。また、きのうまで闇屋をやっていたような教師たちは、たいした定見は持ちあわせていませんでしたから、わたしたち子供たちに押されっぱなしでした。》


というわけで新たしい教師は若くて教育熱心で友だちつきあいのようになったそうです。しかも上級生の二、三年生は国民学校の高等科からきた子供たちばかりでしたから旧制中学に行った残りの生徒たちだったので早い話勉強ができなかった。新生中学生の方ができた。

《以上が発足当時の新生中学のだいたいの人的構成です。したがってわたしたちは、学校を出たての教師以外はものともしませんでした。そして中学は、教わる場というよりむしろ遊ぶ場であり、教師や上級生と戦う場であったわけです。》



鈴木武樹少年はそこで中学一年にして子供新聞を発行して教師批判を書いたといいます。あちきの場合は貯めていたエネルギーをあの理不尽な教師たちに《ラ・マンチャの男 ドン・キホーテ》がやどり教師たちをクソ味噌に批判しパロディにするというシナリオを書いたら、それがまとまりのない工業高校の留年生数人いるクラスがまとまり運動会の仮装行列で「あの真面目で目立たない五輪おたくで原動機クラブ部長なのにクルマの運転も下手で整備も下手で絵心はまあまあぐらいの130人ぐらいの人数で勉強しなくても50番ぐらいが最低で少し勉強したら10番台になるという勉強(実技実習が鋳物などのにおいや旋盤の鉄削り匂い嗅ぐと頭がいたくなり持病の喉のリンパがやられているので咳ごむという)ぎらいで、どちらかというと馬鹿正直で真面目とおもわれていた男が大胆なシナリオを書いたら受けた。
 図書部に入るとただで小説など読めるというのでそちらと掛け持ちしたりして、我がラ・マンチャの男 ドンキホーテは多くの先生たちを卒業まで敵にまわし、物理の先生には「このばかっつら!」と常にチョークの投げられ社会科の先生には実家の親がなくなり膨大な山の遺産の相続税が払えない(現物出資?)の事情ばかり聞かされ、ちろりんの風紀の先生からは「キミは反抗的で公序良俗批判を敵にまわす不良ではないが、その考え凶暴につき…あれは許さん」と監視され、軍国主義の教師は民主主義のかけらもなく、体罰でネチネチと何かにつけて、みんなの前でリンチした。ビンタ最初の一撃は当然だが、鉛筆の尖った先端を手の甲に当てキリのようにえぐる。それを何回も繰り返す。職人あがりの実習の先生からは「お前に教えるもんない」とあきれられ、数学の先生にして音楽編曲で年収・月収自慢を茶川一郎の名前だして月収百万円といいながら、オレの月収はいつも張り合える額だ。女自慢していて数学教えないでのど自慢の「イヨマンテ!」を歌い出す教師は愛車はグロリアスーパ6をのりつけて教師をしているのは仮の姿、浮気どころか女が数人いることがわかり家庭騒動勃発! アルバイトが忙しくなったなったのか自習が増えた日々、あちきは就職だけは自分の行きたいという道を模索して、小さなデザイン企画部門があるという、しもた屋の二階事務所と石版印刷の校正刷り室。下に輪転機が一台と工務の部屋と紙を吊るすスペースに小さな倉庫しかない印刷会社に就職したのだった。



posted by torayosa at 10:12| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月20日

BOSSあかべえとあんちっち コンビ復活(その2)

BOSS「この国はなんか北朝鮮に似てきましたな。あんちっち昨夜はいきなり共謀罪強行採決のいいわけと加計学園グループ問題や森友学園問題隠しでときの総理大臣がわけわからんマスコミ(狗HK)抱き込んだ成果を発揮していきなりメディアジャックとしか思えない記者会見しましたわな」
上を下へのジレッタ 1 -
上を下へのジレッタ 1 -
あんんちっち「そうでんな。しかしうちらの関心は、《上を下へのジレッタ》の千秋楽があって、実はあの内容が手塚治虫さんの先鋭的な芸能界の内幕と政治家や企業家巻き込んでの一大野心プロデューサーの狂気で終焉する地球破壊になる妄想劇になるところなど、いまの日本いったらなんでっけど、北朝鮮にも通じるのんちゃいまんのん」
上を下へのジレッタ 2 -
上を下へのジレッタ 2 -

DSC_6958 (1280x859).jpg
BOSS「そうでんがな。つまり芸能界では周防とかよしもととかジャニーズとかホリプロとかナベプロとか太田プロとおかまず、その大手に逆らうと仕事がなかなかもらえないという話ありますわな」
SN3J0014 (800x600).jpg

あんちっち「うちの知り合いでANさんの熱烈ファンがいらっしゃるんですけどね。ANさんはなんとわずか2年前には、周防関連の事務所所属が奴隷みたいな契約だから独立して個人事務所持ちたいという話を持ち出したら、なんと週刊誌でリークされて次のLIVEコンサートの目処がたたないということになりましたわな? あれ結局どうなりましたん。BOSSあかべえはん」
DSC_6900 (800x537).jpg
BOSS「あれでっか。つまりライジングプロに楯突いたということと絵を描いた大物黒幕のプロデューサーがいたとか言われてえらい目にあむろちゃん、あっいうてもうた、あってましたんやけどな、あちきとあむろっちは悪いなかちゃいまっからな、なりゆきを辛抱強く見守ってましてん。落語会行ったりサッカー観戦はもちろん、ときには燐光群舞台観劇したりあむろっちと仲良く偶然に『麦ふみクーツェ』一緒になって観劇したりとかしながら、あむろっちの行く末心配してましてんけど、あちきなりの戦略組み立てて戦術としての事実をその四月には実行しましたんや」




あんちっち「それってあれでっか。くまモン美子さんモデルへの求愛小説とか安佐木夢見史モデルのBOSSあかべえはんの得意な数珠つなぎ小説とかいうのんちゃいまんのか?」

BOSS「なんであんちっちが知ってまんねん。あちきはご当人さま以外には発表してまへんで。売れる小説でないならそれはそれでしゃない。しかしそんなことでも何が動くから不思議な世の中というか世界というか、まさにあちきの統合失調症の病気が生きることになるんやから、世の中《一寸先は闇》肝に命じておかないといけまへん」




あんちっち「これえげつない見出しだすけど、なんことはない新しい公演の日程が決まり個人事務所も決まり、マネジメントはエイベックスデビジョン・ポイントがやり個人レーベルのデビジョン・ポイントそのまま維持され万々歳やおまへんのか」

BOSS「そうでんねん。ところがこの見出しえげつないやろ。金欠病とか、ちょっと前には四面楚歌とか。あちきはそれが腹たったから安室奈美恵のキャンペーンのファッション雑誌大人買いして本屋であるもの全部買いました。ああいう困ったときに微力ながら何かするのがファンとしての心意気ちゃいまんのん。」




あんちっち「なんか見出しは悪意に満ちているけど内容はBOSSの大人買いファッション誌買い占めになるほど反響があったということでんな、これ読むと」

BOSS「そうですな。ものごとは成り行き任せにせなアカンときもありまっさかいな」
DSC_1538 (422x750).jpg
SN3J0012 (600x800).jpg

6月10日に発売した2年ぶりのアルバム「_genic」をひっさげてのもので、最終的な観客動員数は40万人となる予定だ。初日のライブを観た音楽ライターが言う。

「前事務所、ライジングプロとの専属契約を終了。独立してエイベックスのレーベル、ディメンション・ポイントに移籍しました。独立を巡ってすったもんだが報道された昨夏には、守銭奴、奴隷契約といった生々しい言葉が飛び交い、イメージダウンは免れなかった。今は全てが解決して個人事務所も立ち上げ、新しくスタートを切ったところです。コンサートでの安室は、表情も晴れやか。自慢の踊りはキレッキレに仕上がり、衣装から舞台まで金色で統一。1万8000人の観客に金のポンポンを持たせるなどして、ステージは大いに盛り上がりました。アラフォーの安室はまったく年齢を感じさせず、2時間半、とにかく歌って踊りまくり。どんだけスタミナがあるんだ、と底力に驚かされました」






あんちっち「でBOSSは行きはったんやろ。大阪公演はいつもの大阪城ホールだすやろ!」

BOSS「なんで知ってまんのん。いや、そのころいは家主さんが毎日朝から晩まで怒鳴りまくって《出て行け!》の雨、あられでしたからその準備で金の工面せんならんはアパート探しはしないといけないのに、既に_genicのALBUM買ってメロディーラインだけは頭に入れるということはやってまんねん。しかし英語の歌詞など何と言っているのか全然覚えられまへんねんけどね。一応スマホに入れて聴くことで参戦への気持ちは忘れないようにってことですわな」

あんちっち「ところで話もどしますとでんな、総理のメディアジャック記者会見の翌日にはなんとお東京都の知事がさんざん東京オリンピックの会場問題も引きずり回して結局は何も変わらず土建利権のいうがままの当初の予算がふくらんだいうことでんな」

BOSS「そうだんねん。舛添要一前知事のせこい私的流用金使いどころちゃいまんねんて、その実態がまず、豊洲にありました。なんと自公の
豊洲市場受注ゼネコン 自民党に1億1300万円献金豊洲市場受注ゼネコン 公明新聞に8700万円(推定)の広告 》っていうのがでかでかと暴露されてまんねん」

あんちっち「これって要するに、盛土の問題も汚染水対策の問題も何も解決していないのに移転時期をここまで先送りして築地市場の業者も店じまいしたという話たくさん聞いてまっけど、大阪も阿倍野西地区開発の2000億円の赤字問題抱えており財政の逼迫は尋常じゃおまへんけど、えらいことでんな」

BOSS「あんちっちはBSの番組ご覧かどうか知りまへんけどね、BS朝日やBS日テレでは築地市場の職人さんや凄腕の仲買さんの目利きの実態やらマグロの捌き方熟練の伝授の話や同時に築地市場の豊洲移転が決まったために築地市場での新店舗と移転後の豊洲での新店舗の二重経営のために、豊洲移転の延長は業者の投資資金の回収に目処が立たないから、補償問題が起きてますわな?」

あんちっち「そうですわな。わたしの代でたたみます。と割り切っている方もおあられますが、そう簡単に行かない事情がお得意さんにもあるってことですわね、それぞれの専門分野の扱いがあり、そこでは自然と築地市場全体の利益のために品物を巧みに融通しあいするとか、なんというか信用商売の仲買人のひとの良さなんか見ていると、江戸っ子っていいな、とおもいまっけどね」

BOSS「そうでんがな。なんでも決済は電子マネーとかになってゆくのはしょうおまへんけども、人間の目利きがAIロボットにできるようにいずれなるにしろ、ペッパーがその水準になるにはまだまだ時間かかるんとちゃいまっか?」

あんちっち「そういえばBS朝日の特番で今度都議会選挙に立候補しやはった森山さんでしたかな、建築アナリストさんが常に何が豊洲の設計上の問題なのかを分析しておられますね。重量がどうとか。トラックの荷降ろしの横幅が足りないとか…」

森山 高至(もりやま たかし、1965年[1][2]12月15日[3][4] - )は、日本の一級建築士、1級建築施工管理技士。メディアでは建築エコノミスト[5]、建築アナリスト[6]との肩書で活動している。森山 崇という名義もある[7][8][注 1]。

土木・建築工事の請負、不動産、建築物の設計・監理を主な事業[12]とする株式会社CRAの取締役でもある(ウィキペディア)





BOSS「そうでんがな。盛土がないのは盛土で東京ガスの跡地のベンゼンなどの有害物質を封じ込めてしかも地下水があればそれは地中のポンプで汲み上げ汚染処理装置で浄化して捨てるという手順だったのが、汚染水が盛土ないから空間にあるはその中には配管装置が迷路のように走っているわしかも高さが高いとかで、ちょっと修理のための地下への通路完備はあるようでっけど、簡単には修理もできない空間になってますわな」

あんちっち「しかも道路をはさんで施設分散していますから、パレット移動のヘアピンカーブが事故の危険性が指摘されてましたわね」

BOSS「そんな基本的な大切なことなんで仲買人さんらの意見聞かずに設計されましたんかわけわかりまへんわな。実際に映像見ましたけどあのヘアピンカーブで移動するのはスター・ウォーズの映画ならシャレになりまっけど朝の忙しいときに集中しますやろ。時間差通交とかしまんのかな? 気になりましたな。お東京都さんのこといえる関西人でおまっけどね」

(つづく)

あちきはPCは安室奈美恵個人事務所設営を記念して、すべて_genicのALBUMの写真の壁紙を使用しています。
posted by torayosa at 20:45| 兵庫 ☁| 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月19日

世界のボクシング界隈と私的日本ボクシング事情(ボクシング追想5)

昨日、ボクシングライトヘビー級の3団体統一王者になったアンドレ・ウォードとセルゲイ・コバロフの再戦がWOWOWオンデマンドとダ・ゾーンでネット生中継があった。





結果は中盤から接近戦でボディ攻撃でウォードがコバロフのスタミナを奪って、初対戦でのスプリットデビジョンの研究からコバロフの距離を殺し思い切って接近戦にもっていった戦略は評価できるものではあったが、前半からローブーが数回あり、その行為に対してレフリーのトニーは普通なら減点になり、十分な休養時間が与えられるのが通例の展開をわざとか、たんに見えなかったのかは定かでないが有名なレフリーはこのシーンをさらっと流してファイトを求めた。このレフリングはいただけない。WOWOWの中継解説者の浜田氏や飯田の解説もわからないではないが、あそこまで露骨なローブローのあとの打ち合いでのウォードの右フックがコバレフの決定的なダメージになったのは事実だが、ロープ際のウォードのローブローの連発は明らかに反則打だ。長年ボクシングを観てきたものとして、この不愉快な結末にアンドレ・ウォードの巧さは認めるがスポーツとしてのボクシングにアメリカ対ロシアの構図が以外と人気カードになりえない現実を観た、という感じだった。実際、どこ観ても事前報道は興行的にはマニー・パッキャオがフロイド・メイウェザーと試合したときのような盛り上がりがなく、ウォードの評価はあくまでも一部のボクシング通と玄人に評価される存在であり、知名度はなく今回の再戦のペーパービューの不人気にはHBOもがっかりの興行だった。


つい最近のヘビー級のビックマッチの





それはともかくあちきは8月15日のワールドプレミアムボクシングのチケットをぴあで手にした。真夏のお盆はガンバ大阪対ジュビロ磐田の(因縁のりマッチ大阪万博記念)と市立吹田サッカー場と京都の島津アリーナの山中慎介のスリル満点なKO勝ちによる13度防衛というあの沖縄石垣が産んだ当時のジュニアフライ級(具志堅用高のためにできたといわれた階級)の13度防衛に並ぶことを祈念して、ごたくは忘れて生観戦したい。トップコンデンダーでしかも無敗でKOパンチもあるサウスポーとという若手ホープの指名挑戦者のネリー相手ということで、期待は高まるばかりだ。序盤に若手ネリーのラッシュなどに巻き込まれない注意は必要だが、ペースを握れば右の差し合いも進歩している山中慎介Champの「神の左」は炸裂する可能性が高いだけに、楽しみな京都島津アリーナではある。あそこでの試合で3ラウンドに致命的と思われる2度目のダウンで(10度目防衛戦)リボリオ・ソリス戦で生観戦地獄観ただけに、今回は母校《京都南高校・京都廣学館高等学校(きょうとこうがっかんこうとうがっこう )》ゆかりの地での2回目の凱旋試合だけに、ファンの期待がふくらむというわけだ。

あちきが単にボクシングファンお宅問いわれる存在であるのはしゃあないけれどもね。



なんと井上尚弥の西海岸進出防衛戦が決定というニュースが飛び込んできた。

今年3月以来の再戦となるWBC世界スーパーフライ級タイトルマッチ、王者シーサケット・ソールンビサイ(30=タイ、43勝39KO4敗)―前王者ローマン・ゴンサレス(30=ニカラグア、帝拳、46勝38KO1敗)が行われる。シーサケット―ゴンサレスがメインイベントで、井上尚―ニエベスはセミファイナルとして行われる。


というのだ。しかも、

同じ興業ではWBC世界スーパーフライ級挑戦者決定戦として、元王者で現同級2位のカルロス・クアドラス(28=メキシコ、帝拳、36勝27KO1敗1分け)―同級3位ファン・フランシスコ・エストラーダ(27=メキシコ、35勝25KO2敗)も組まれており、勝者はシーサケット―ゴンサレスの勝者との対戦が義務づけられる。


 
スーパーフライ級の“世界トップ5”、井上尚、シーサケット、ゴンサレス、クアドラス、エストラーダが集結する注目のトリプルヘッダー興業は、米ケーブルテレビ最大手HBOが中継する。


いやスーパーフライ級がローマン・ゴンザレスと井上尚弥に加えて元WBAのスーパーフライ級チャンピオンのフランシスコ・エストラーダーも加わって、楽しみは軽量級とは思えないカードが実現してHBOもショウタイムに遅れをとったヘビー級ウエンブリーでの9万人興行の生中継権のがした巻き返しで、東洋のマーケットにも本格参戦、いや帝拳のプロモートは大胆不敵なことになってきたもんだ。

既に、7月16日にはミゲール・ベルチェルト対三浦隆司や8月27日にはミゲール・コット対亀海喜寛のスーパーウエルター級王座決定戦などもあり、さらにいえばあのマニー・パッキャオが初めてオーストラリアの5万人規模の会場でジェフ・ホーンと7月2日に対戦するウエルター級防衛戦もある。真夏のボクシング熱がさらに高くなる。いや、ボクシング状況には目が離せない。


という長み前ふりがあって、関光徳以後のフライ級三羽烏で売り出したファイティング原田に海老原博幸に青木勝利について、見てみよう。いや、もうこのころファイティング原田の出現はなにしろ、白井義男以来のフライ級王座奪回の悲願の日本に出現したまさに時代も申し子たちのボクサーたちの競う季節になろうとしていた。

パスカル・ペレスはフィリピンの当時の英雄ポーン・キングピッチに破れタイトルを失いそこに常に立ちはだかったのがキングピッチだった。最初に日本人選手で挑戦したのはフライ級時代の関光徳だった。サウスポーの関光徳は長身で強打ということで期待されたが既に減量に苦しみ初めての世界挑戦試合は精彩がなかった。関光徳が19歳で挑戦したとき、1961年6月27日あちきは針中野温泉の当時のスーパー銭湯で見たのだが、関光徳は26歳の2度目の防衛戦のChampに翻弄されていた。左の強打は不発であしらわれ接近してのボディブローでスタミナを奪われ蔵前国技館の1万人の熱気は沈黙とため息、当然温泉ロービーのテレビ画面を囲む大人たちも沈黙やため息があり、プロレス中継に熱中した歓声はない。ホームタウンで手嶋氏が確認したら145対144で勝ちとしていたようだが、誰も15回戦の終盤は完敗を感じた内容だった。

DSC_5697 (640x401).jpg
posted by torayosa at 15:39| 兵庫 ☀| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月16日

BOSSあかべえとあんちっち コンビ復活(その1)




SN3J0014 (800x600).jpgDSC_6569.JPG


落語 皇国史観のねじ曲げ共謀罪


あんちっち いやほんま、月亭可朝師匠もびっくりの展開だすわ。なにゃねんと猫もびっくりの中間報告に参議院の法務委員会すっとばしの本会議強行採決の共謀法成立だっせ!

BOSS ほんまでんな。世の中おかしいっていうのは2012年の東京都知事選挙と衆議院解散総選挙の同日投票でおかしさは頂点になりましたけど、ここまで維新もからんで悲惨な大政翼賛会へ一直線とはよくもまあ、やってくれますわな。これで怒らない連中は自分だけは共謀罪に問われないという自信あるんとちちゃうかとおもいまっけど…ほんま頓馬天狗もびっくりのはずかしい姿を世界にさらして、安倍昭恵夫人はもちろん安倍首相それに追随する内閣の連中は一体国会でなにを丁寧に説明したというのか、ほんまあきれてしまいますわな。

実際落語のまくらにしたらその滑稽さわかりまっさかいな。安倍の答弁文字起こしした方のブログ読んだら、この事情がよくわかりますわな。つまり加計学園グループ問題の核心をつかれだして安倍はうろたえた。そして自分の森友問題のときの「かかわっていたら引退!」の言の葉が浮上して、やばい、ということになり意味不明の答弁で国会の委員会での答弁をやりすごすことになってましたわな。

あんちっち あれ、なにいっているかよくわかりまへんけど、ああいうのは議事録にも残ってまんねんやろ。

BOSS そうでんがな。はすかしいで。一国の首相の答弁がまともな文章にできないっていうのは世界にうちの国の首相はうんぬんを(云々)をでんでんとしか読めませんとか…はじかいているのに全然こりてまへんからな。


BOSS これがもともと第一次安倍政権が企んでいた今回の共謀罪法案の前身ですがな。あちきの彼女の熊紋美子モデルのよっちゃんがいってました。わては落語ファンでおまっけど、この法案ってまるで寿限無法案でんな、とかいってました。




あんちっち こんなに長いのは昔の巻物文化の継承なの。しかし長すぎて国会議員もすぐにおぼえきれまへん。

BOSS そうでんねん。筆記ちゃんの復帰ALBUMのFantomeは素晴らしい日本語が散りばめられた歌詞と楽曲でおました。発売と同時に予約もおおかったせいかAmazonの売れ行きもタワーレコードもバンザイのミリオンヒット。評価見てもオール☆いつつの素晴らしい格調のたかい文章がならびその質の高さは倫敦塔なんかとっくに追い越し、いまやあべのハルカスのあべのベアも驚く高さに到達したっていうもっぱらの売れ行きと評判なのに、あの安倍首相の答弁はなんでんのん。







(これはあくまでも数詞 一の創作でありんす。安倍昭恵の恵をあえて江のままにしているのは東京オリンピックと豊洲移転景気? にわく東京への皮肉?)







(以下引用はネットゲリラでご活躍の川本耕次さんのブログより)

【悲報】安倍さんガイジだった...?国会答弁で質問に一切答えない池沼答弁が文字起こしされてしまう 、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。

-----------------------
宮崎
「責任とるという発言を、3月13日、参議院予算委員会でされていますけれども、総理、責任ってどういう意味ですか?もし、働きかけが証明されたら、どんな責任とるんですか。」

安倍「今、また認識の間違いをされますから、説明しますが、構造改革特区と国家戦略特区、この違いをよく理解されていないんだと思います。」

宮崎「それはあなたですよ」

安倍「まずどちらにせよ、サブスタンスを議論してるんですから、まず皆さんの時は、構造改革特区というのは、上がってきたら、めくら判ですか?違いますよね。上がってきたら、め、めくばらんですか?これ、あがって、あがって、あがってきた、あがってきたものをですね、あがってきたものを精査するわけですよね、で、あがって、あがってきたものについては、先ほど申し上げましたように、自民党政権においては、熟度等も含め、あるいはですね、獣医師会等との関係においても、対応不可、対応不可であったわけであります。
国家戦略特区、国家戦略特区においてはですね、まさに、今治市ということで、それも上がって来るんですよ。
で、大きな中で、国家戦略的にですね、国家戦略的に穴をあけていくということで、決めて行きます。
ですから、その中で、我々も、医学部を決めました。医学部を決める、新たに新設をしました。
-----------------------
↑あがって
あがって
あがってきた
あがってきたものをですね

あがって
あがってきたものについては
-----------------------
でも医学部を決めるに際して、私が成田市とか、言ってるわけではないんですよ。たとえば、私が、養父市とか、言ってるわけではないんですよ。
もし、そう思っておられるんだったら、全くこれ、考え方、変えられて、というか、ですね、全く理解が、全く理解が、間違ってると、言わざるを得ないんですよ。
で、最終的にはですね、最終的には、何でも、どんな仕組みであれ、最終的に決めるのは、内閣総理大臣ですよ。
そして、どんな、色んな会議、たとえば、経済再生諮問会議だって、私が議長です。様々な議長があります。
でも私が、そこでですね、勝手に色々なことを決められるんだったら、そもそも諮問会議の意味がないじゃないですか(与党:そうだ!)。
私は根本的に、宮崎さんは間違っている、こう思いますよ。で、いずれにせよですね、いずれにせよ(差し出されたメモを見る)。
の、今の、あの、めくばら、えーめくら判についてはですね、ちょ、ついては、言葉として、問題がありましたので、訂正をさせて頂きますが、しかしですね、いわば、これはですね、あの、基本的にはですね、上がってきて、上がってきてですね、先ほど申し上げましたように国家戦略特区諮問会議でですね、民間議員がですね、民間議員が、民間議員が、真摯に議論をするんですよ。
ですから、皆さんのこういう議論に対して、民間議員の皆さんは、怒ってますよ。その意味に於いてですね、どんな決定においてもですね、どんな決定においても、その決定に、問題があるんであれば、責任をとるというのは、当然のことであろうと。(なぜか席に帰ろうとする)」

玄葉委員長「総理、質問に答えてください。責任とは何か。」

安倍「いや、責任をと、責任があるから、責任を、私の、私の責任をとると、え、え、これ、中身についてはですね、中身については、あの、敢えて申し上げる必要はないと思います。」
-----------------------
↑基本的にはですね
上がってきて
上がってきてですね

国家戦略特区諮問会議でですね
民間議員がですね
民間議員が
民間議員が
真摯に議論をするんですよ


このままだと安倍内閣が崩れるね 
-----------------------
わたしが森とっぅも学園のホームページに対してわたしが隠ぺいしようがないじゃないですか。
そういうイメージ操作はねえ、やめるべきですよ?
そういうことをしてるからですね、国民の信頼をうることが、みなさんはできないんです。

これはっきりと申し上げてね、はっきりと申し上げて、いいですか、で、そういうですねえ、そういう、すいませんちょっと野次はやめていただけますか? たいせつなところなんですから。
こういうですね、こういうたいせつな議論をしているときに、正確な議論をするべきなんですよ。
で、そのなかでですね、そのなかで、この、お、えー、先方がですね、家内の、あの、おー、ぅ、えー、名誉校長という、ホームページのページをですね、隠ぺいしたという言い方はですね、これは取り消して、まず取り消して、え、っう、いっい、ぃ隠ぺいというものをですね
まずわたしに質問する前に、じゃあ取り消してください。
何度も何度も断ったというのはですね、安倍晋三小学校について申し上げたわけであります。
それと、隠ぺいというのはですね、これは失礼ですよ!

で、あなたたちはすぐにそうやってレッテル貼りをしようとしている。
この問題についてもですね、まるで、まるでわたしが関与しているがごとくの、ずーっとそういうですね、えーイメージ操作をこの予算委員会のテレビつきしつ(ママ)の時間を使ってですね、えんえんと繰り返していますが、みなさんそれが得意だし、それしかないのかもしれない。




それしか、ま、ないのかもしれませんが、隠ぺいというのはですね、隠ぺいというのはー、隠ぺいというのはじゃあ、わたくしが隠ぺいしたんですか?



BOSS まず、そもそもの長いやつ。《平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連》ここまでで85文字もありまっしゃろ。あの日の朝日新聞見たら欄外に小さな字で活字ならべてまんねんで。最初冗談やなしになにかの間違いにきづいて急遽紙面が間に合わなかったのかとおもいましたぜ。ところがちがいまねん。

あんちっち こんなながたったらしいのが縮めると『テロ特措法』の5文字に化けるんですか。化け猫でもそこまでしまへんやろ。

BOSS それがやりましてん。《する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法の一部を改正する法律》この37文字がつづいた122文字の法案が『テロ特措法』の5文字に略した法案を通そうとしましてん。

あんちっち 法案の特措法の原案つくる官僚もたいへんな労力ですな。


BOSS そうでんがな。なんでも2001年当時の内閣官房側から題名を詳しく書きたいという要請があって法制局の秋山さんって方が、だったら長くしたらってことで、9月25日の第1案から10月2日の第5次の修正最終案まで経てどんどん具体的な言葉をつけ足した結果122文字の『テロ特措法』ができたんですな。

あんちっち で、その法案できて自衛隊はどんなことしましてん。

BOSS 最初はインド洋自衛隊の補給艦と護衛艦を派遣しましてですな、米軍などの艦艇に燃料や水の補給しましてん。2年間の時限立法ゆうてでんな。そこでおわりかな? とおもったら自動延長でなんと2007年の11月1日にいよいよ期限切れ。さてどうするってことになってですな…議論があったってことですわな。

あんちっち それが自衛隊海外派遣に弾みがつき、いわゆる安全保障関連法案という名の《戦争法案》につながりましたんかいな?

BOSS そうでんがな。せっかくその後小沢一郎代表に立てて政権交代の風が吹いたというのに、小沢一郎だけはだめだと米国のジャパンハンドラーの圧力もあり、いわゆるまずは西松問題から陸山会問題がでっちあげられて、小沢一郎の政治資金規正法期連れ問題などでマスコミこぞっての反小沢キャンペーンが始まりましたわな。連日小沢一郎がどんな国家的犯罪をおこしてんという騒ぎが朝から文字通り晩まで報道されました。いきなり秘書の逮捕や関連議員の逮捕などいわゆる検察のでっちあげに、小沢一郎はやむなく代表を降りて鳩山由紀夫代表を立て自分は幹事長として選挙戦は裏方に徹して大勝利したのが2009年夏の衆議院総選挙でした。

あんちっち そうだしたな。わてはどっちかいうと政権交代反対の気持ちあったから、そういえばBOSSのいやがらせっていうか、ま、選挙のにぎやかしに放牧のようなことされてまっから、お気楽ではありました。けどあのころ相模原の麻溝台の空気は異常な感じで、住民が張り切ってましたんちゃうのん。

BOSS そうだした。とにかく神奈川16区Gが自民三代の一族に風穴あけるっていうて、立候補したもんやから、今度こそ天の風にのって自転車かっとばして厚木の地元から民主党の風ふかすというもんやから、事務所開きから大変なもりあがりでしたな。KNがいきなり水色のワイシャツまくりあげて事務所にきてました。

あんちっち そうだっか。あてのともだちはバスのって事務所のようすちら見したそうだっけど実態はようわかりまへん。

BOSS 麻溝台の公園での第一声には地元の県会議員や相模原の市会議員や市長までかけつけて、もりあがったところで鳩山由紀夫代表がクルマで到着したもんやから、マスコミも気になってか、気がつけばようさんきてましたわ。とくにテレ朝のお天気ねいさんまでこっそり来ていたのは4月からサブキャスターに抜擢されたからでしょうね。

あんちっち BOSSはそんなぎょうさんおるマスコミのなかからそんなことわかりまんのん。

BOSS それはここではいえないから小説でかいてまんねんけどね、後にそうしたらあのスケベじじいとあちこちからいわれましてん。おうじょしまっせ。文学的に迫る方法論のひとつとしてああいう恋文小説もあってもいいやないかと、おもったんでっけど…その内容がなぜか漏れましてん。

あんちっち わかった。うちのともだちそのころBOSSの監視みたいなことやっていたんとちゃいます。いわゆるハニトラのようなもの。

BOSS そうでんがな。はなしはしょっていうと、小沢一郎は自分が苦労してまとめた民主党を裏切られて、結果的党首選挙でわずかに負けて追い出されて「国民の生活が第一」を結党したまではよかったんでっかどね。わても腹心のM議員の出版パーティに2万円張り込んで参加したりしたもんですわ。

あんちっち あのN党首の首相が消費税10%に上げるとか大間の原子力発電工事再開とか関電大飯の再稼働とか、国会前の反原発運動の民意をことごとく無視してしかも民主党を分断する政策にしたもんやから、えらい騒ぎおこりましたな。


BOSS そうでんがな。なんか話どんどんそれてまっけど…気がつけば数の論理で国会運営の手続き無視の《共謀罪法案》成立になってまんねんから、ダークサイドっていうSTARS WARSに向かうのは早い早い。消費税は8%になるし《平和安全法制》という名の《戦争法案》で国連安保理平和維持軍団の要請で南スーダンの紛争地帯に自衛隊が派遣されたのは記憶にあたらしいところですわな。

あんちっち そうでしたな。白兵戦にまきこまれるかもしれないとか、無政府状態の内戦ですから、とか少しニュースみてましたけど、自衛隊員にも家族おられるわけで、この状態であんなとこ行くのはかわいそうっておもってました。

BOSS その国連にいちゃもんつけて世界の笑いモンになる危険性あるのに、東京オリンピックに必要という理由で《テロ等準備罪という共謀罪法案》つまり戦前の治安維持法とおんなじ権力を公安警察や内閣調査局が持ち拡大解釈されると、小林多喜二さんのように虐殺されたり、『母べえ』の映画の主人公の父べえが勉強で本を読んでいるだけで獄中で亡くなるという時代がくるってことですわな。国防婦人会とか復活しまっせ。いまはSNSでビッグデータ取られてまっからね。

あんちっち 加計学園グループ問題で次官やめたMさんが告発の動きしたらたちまち私生活の動きからリーク報道がされましたわな。いわゆる印象操作報道。それに対して週刊誌が独自取材で事実報道、文科省の内部から文書がでだしたら、文科省副大臣が脅す処分するという恐ろしい世界をM議員が正してました。


BOSS そうですわ。あんちっちは芸能情報も好きなので週刊誌好きでっしゃろ。美容院でも読めますわな。美容院は古いか? ヘアーサロンでっか? 

あんちっち しかしこれじゃおもろいこともなんともおまへんのんちゃう。

BOSS そうでんな。日本国の歴史を踏まえて琉球弧の沖縄普天間基地の辺野古への移転問題や高江のヘリパッド建設のゲリラ訓練地の整備に宮古や石垣の自衛隊基地による先島要塞化計画など問題と金がかかる防衛費は従来からのいわゆる米軍へのおもいやり予算の恒久化狙いになり、露骨に軍事産業が儲かる構図になってきてますわな。オスプレイはもう17基も飛んでますやろ、確か。墜落事故あっても想定内。しかし米軍はアメリカ本土ではオスプレイは飛ばせません。しかし日本本土でも飛んでますわな。そもそも厚木基地の自衛隊が米軍の指揮下にあるというのも事実らしいでっからね。未だにマッカーサーにはさからえない。



(つづく)
posted by torayosa at 10:38| 兵庫 ☀| キャラクター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

王者になれなかったサウスポー関光徳(ボクシング追想4)

DSC_5697 (640x401).jpg

いま、ボクシングのWBAという老舗団体が大きな岐路にたたされている。もともと、WBAの前身1920年にできたNBAつまり全米ボクシング協会だった。その機構が1962年にWBAになり、世界チャンピオンの公認機構として各国のコミュションが参加してできた。つまり、白井義男がダト・マリノに勝ち世界チャンピオンになった時代はJBCが発足して田辺宗英が初代コミッショナーとして立会い実現した。



その後、本来はWBAの内部機構組織世界ボクシング評議会WBCが発足し、五大陸(北米、中南米、東洋、欧州、英国)の代表が問題を取り上げられるために作られた機構が、WBAの米国中心運営に反旗を翻すことで、内部分裂しWBCが1968年に発足により、アジア軽量級王者の加速が始まり中南米、アジア人の小柄ボクサーの再評価時代が始まったというのが、あった。



関光徳の前に話を端折って渡辺二郎さんの事実上の二団体統一マッチはそういう過程で実現した稀有な例だったのだ。渡辺二郎はすでにWBAタイトルを6度防衛その中には2度めの防衛戦での元フライ級チャンプ大熊との対戦もある。つまり、6度も勝ち続けると挑戦者が現れない。大熊との試合は関西初のJrバンタム級(現スーパーフライ)のチャンプとしてステップアップの試合だった。後のセルソ・チャベス戦では大阪城ホール(当時は大阪国際文化スポーツホール)を13500人の観衆に埋めるまでに知名度も上がり長身のパナマ選手を15回TKOで破り6度めの防衛に成功していた。

そして機が熟したのがWBCのチャンプのパヤオ・プーンタラット(タイ)とどっちが強いねん、という話題だった。実現に際してWBAは渡辺二郎のタイトルを剥奪しており、渡辺二郎はそのリスク承知でWBC世界タイトルに挑戦という形で実現した。渡辺二郎はその試合で苦戦したものの終盤に決定的なダメージを与え僅差の判定勝ち。WBCのチャンピオンになり事実上の統一を果たしている。大阪城ホールは公式発表1万4000人を動員。その後の再戦では11回TKO勝ち。

大阪帝拳ボクシングジムのこの歴史は辰吉丈一郎へつながるというわけだ。


ところで関光徳のことだ。長身のフライ級から始まり、フェザー級まで階級を上げていることはファイティング原田と同じだが、残念ながら知名度は高かったが世界戦や前哨戦でどうしても勝ちきれなかった。

フライ級時代は1961年6月27日蔵前国技館で実現、ラジオでキングピッチ(フィリピン)との試合を聴いたものだが、19歳の関光徳は減量に苦しみ(当時は当日計量)にサウスポーの武器の右フックからの得意の左ストレートを打てなかった。6回に受けたボディ攻撃でダメージを負い完敗した。その後バンタム級に転向したら、ジョー・メデルのロープ際の魔術師のカウンターに沈むという具合でエデル・ジョフレへの挑戦権は後の二階級王者のあの伝説の視聴率男のファイティング原田の登場を待たなければならなかった。

そして迎えた次の世界挑戦はフェザー級だった。キューバのシュガー・ラモス戦だ。関光徳はフェザー級に上げたことで減量から解放され東洋太平洋フェザー級では敵なしの勢いで22歳になっていた。1964年3月蔵前国技館のことだ。関光徳は序盤の三回までは順調だった。しかし6回にダウンするとその後ラモスに攻められセコンドからタオル投入、あちきの家の床の間に鎮座したカラーテレビの垂れ幕を降ろさざるを得ない失望の敗戦だった。


それでも関光徳はチャンスを貰った。新和ジムの神話のような話で今度はビセンテ・サルジバルに挑戦の機会が海外でやってくるのだが、1965年という時代はファイティング原田がブラジルの黄金のバンタムと言われたエデル・ジョフレに勝ち二階級制覇というとんでもなボクサーの出現で沸き返り、東京オリンピックで桜井孝雄がバンタム級金メダル獲得してプロ転向で監督と絶交状態になる話題などもあり、ボクシング界はフライ級の宿敵はポーン・キングピッチからアルゼンチンのホラシオ・アカバロになり盛況一途、テレビのボクシング中継はプロレスに変わる勢いでファイティング原田のボクシング視聴率は天文学的なことになっていた。



1966年8月7日メキシコ・シティ・エル・トレオ闘牛場で行われたというサルジバル戦には記録を調べると45000人の観衆があったという。


あちきは、どこにいたかというと松下電工の合板工場にトヨエースで初めて単独の配達をやらせれていたので、その工場の片隅で昼休みにラジオ中継を聴いていたのだ。関光徳が4回に右ジャブから左アッパーでダウンを奪ったというときの興奮は頂点に達しなりふり構わずラジオのボリュウームを上げクーラーを効かせてクルマの運転席にこもった。

配達すべき荷物は運んだ。あとは合板見本の引取だったが、昼休みなので多少の時間のズレは問題ないというので、とにかく試合終了まで夢中になった。

しかし4回のチャンスにKOできなかった関光徳は7回にダウンして反撃を許し3対0の判定負けして帰国した。関光徳のメキシコ高地での善戦は評価されこそすれ、誰もが次の機会こそ世界チャンピオンになるという期待を抱かせた。

そして迎えた再戦は翌年の1月29日再びメキシコ・シティ・エル・ドレオ闘牛場。しかしこの闘いは7回TKO負けであっさり退こられた。

いや、不運ではあるがメキシコ・シティでの闘いで当時のビセンテ・サルジバルに気後れすることなく闘った関光徳は記憶に残るボクサーではあった。

1968年1月関光徳はロンドンにいた。サルジバルの引退によりWBCの王座決定戦がロイヤル・アルバート・ホールで行われた。関光徳のアウェーの試合はどこも会場が広くこのアルバート・ホールでも2万5000人になっている。相手はハワード・ウィストン、あちきはこの試合の映像を記憶の断片にはっきり残っている。関光徳は9回に目尻をカットしたのだ。そしてレフリーは実にあっさり試合を止めTKO負けになったのだった。関光徳26歳、73戦61勝35KO、11敗1分でこの試合後若くしてあっさり引退している。今の時代は三十半ばで現役続けるボクサーはざらにいるが健康管理と栄養管理やスポーツ医学の進歩により試合数も昔より少なくなりつつあるが、昔は一年に10試合ぐらいこなす例は日本でもざらにあった。


関 光徳(せき みつのり、1941年1月4日 - 2008年6月6日)は、日本の元プロボクサーおよびプロボクシングプロモーター経験者。東京都北区出身。元OBF東洋フェザー級王者。横浜光ボクシングジム初代会長。(ウィキペディア)
posted by torayosa at 12:28| 兵庫 ☔| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

ボクシングフェスの2Dayの不可思議と『Little Voice』銀河劇場



DSC_1961 (422x750).jpg
DSC_5694 (750x502) (2).jpg
ボクシングフェスの二日間を有明コロシアムに通った。有明コロシアムはでかい会場だ。しかも見やすい。さいたまスーパーアリーナのようにアリーナ席が広すぎると設営がアリーナのワンフロアでは醜い、いや見にくい。。しかしテニス殿堂ということで傾斜は全体を見通しができる構造になっており、しかもアリーナ席はもともとテニスの一面を覆うスペースなので傾斜をつけるにしろ設営のひな壇が簡単にセッティングできるということで、ボクシングファンには素晴らしい環境である。しかも中央には東西南北にLEDの美しい大型ビジョンが設営されている。これに入場の演出にテレビ映像だけではない、K1のような趣向もあれば、生観戦のファンにも最高のエンタメとしての環境が整う。

もちろん主役はボクシングでメインを張る5選手の世界タイトルマッチということになるが、玉石混合感は否めなかったことをシビアに見ている必要がある。

なぜそういうことをいうのかというと、20日には天王洲銀河劇場で『Little Voice』を鑑賞したからだ。あちきは大原櫻子のヒロインデビューの映画『カノジョは嘘を信じ過ぎた』を福岡のカナルシティで偶然見ていた。その日は安室奈美恵の『FEEL』の福岡マリンメッセに行くために福岡にいたのだ。

彼女を5000人だったかの応募者の中から抜擢した音楽プロデューサーの眼力に興味を持ったからだ。、その後がシンデレラ・ガールは必ずしも順調に育たないの世の倣い、そこはシビアな世界だ。

という前提でTwitterで大原櫻子が初の主演舞台を演じるということを知りあちきの嫌いな狗HKではあるが、番宣企画にこれも偶然大原櫻子や高橋和也はでていたので、なんとか小遣いの工面ができれば見たいと思ったのだった。

ボクシングという格闘技との落差はあるがジャンルに貴賎はない。

音楽や演劇音痴は自認しているから、おまえのようなド素人が何にもわからんのに、なにを言うかといわれれば、確かに専門用語に疎いあちきは一歩引き下がらざるを得ない。しかし、それが高尚になってしまった、猿楽や能・狂言や歌舞伎や文楽も元をただせば、大衆にまず支持されないとその広がりは自ずと限界があることは、権威にだまされたペテン師の盲目の作曲のゴーストライターがその話題牲がきっかけで本来の才能に目覚めたかどうかは知らないが、結構な公演やテレビ出演などで観客を集める力を得たことに現れるように、ひとびとは本来いい加減なのだ。

芸術家はときの権力者の庇護があって初めて多くのレジェンドを作り出したことは洋の東西を問わないことを考えれば、その説得力は大衆が支持しないとなかなか広がらない。宮沢賢治のほとんどの未発表の作品は高村光太郎が奇跡的な判断で空襲から守ったカバンがからであることは、たびたびふれられることで、劇団30(さんじゅうまる)主催者の渡辺えりが『天使猫』という素晴らしい演劇にして話題になってことで、改めて数年前に知らされたものだ。

そこで、話をもどして大原櫻子主演の『Little Voice』だ。これはもともとミュージカルだと思っていたので、一幕目の一時間強の場面の演出は正直にいうと、はずれだった。主人公のひきこもりの苦悩と母親とのギャップの演出は台詞やセット母親の男の人間関係がからむ音楽プロデューサーとしての存在の前ふりは必然かも知れなないが、正直あちきの中では実に退屈な時間だった。このままの調子で休憩時間まで耐えられる観客の期待感はそれなりに忍耐強く、よく我慢しているなと思えるほどだったのだが、あちきの乏しい演劇鑑賞経験でもこれほどの退屈はなかった。例えば坂手洋一主催燐光群の演劇でも一、二作は自分がついていけない南海ホークスつまり難解すぎてしんどくて、そしていうている意味はわかるのだが、その作品を滝川某に書いた作品の再演だったが、思いでぼろぼろのわらび座の音楽劇を見たときとおなじような失望感があった。

失望感というか自分にははずれの作品もたまにあるが、『ラ・マンチャの男』で松本幸四郎や元宝塚の霧矢大夢のヒロイン見ても物語は知っているけど、そのミュージカルに入りこめた。それは蜷川演出で見た寺山修司作品『青い種子は太陽のなかにある』の音楽劇見たときにも入り込めた。カトゥーンの亀梨和也や高畑充希を主人公にに脇も豪華メンバーでそのスケール感とセットのメッセージ性や猥雑な世界を再開発で均してしまおうという行政に関わる官僚や政治家に連なる開発業者、そこで働く人の葛藤や状況がまさに1963年という東京オリンピックの前年に佳境を迎えた問題を普遍的に追求する演劇空間は新鮮で、偶然時間つなぎつぶしに見た映画『バンクーバーの朝日』の亀梨和也や高畑充希はこんなに歌えるのかと改めて思ったものだ。ピーターパンで鍛えられていたという話は知っていたが、特別な思い入れがあったわけではない。


しかし、『Little Voice』の演出趣向が実は 二幕からの劇中ショーに巻き込む布石として主人公ローラの音楽的才能をより強調するために、『白鯨』の小説が退屈な膨大な前フリであちきのようないらち傾向にある人間にはとても読む気にならない頁を読ますような演出手段なのだよ、というのならありだとは思う。

なぜなら二幕からの趣向は7人の生バンドが入りクラブ歌手としてデビューさせる大原櫻子演じるヒロインローラが大失敗をやらかすシーンからやっとでました、という演出家の意図が少しわかったからだ。しかし、あちきはそれがなかったらさっさと天王洲銀河劇場からボクシング会場のある有明コロシアムに移動するところであった。しかし、移動しなくて良かった。二幕からの趣向こそあちきには退屈な趣向であったという一幕がわかり、その演出に芸達者な先輩を配しているのに気後れなく主役を演じた大原櫻子の可能性を大きく引き出してみせ、「どうだ!」と一日2回公演もあるという天王洲銀河劇場に見事に星降る夜を見せたエンディングに引き込む。脇を固めた役者さんも実際に劇中で歌ったのは高橋和也だけだから、ミュージカルではない。『麦踏みクーツェ』のような音楽劇で観客の持参した鳴り物を一緒にかき鳴らし楽しむ舞台でもない。
CtfI0VYUAAAuf45.jpg
中島らもWORLD全開のG2演出の『キミはフィクション』のようなバンドと最低限の大道具と小道具であり得ない世界を観客に想像力を働かせ具現させる楽しみがあるわけではない。

『マイフェア・レディ』の定番的メロディーと楽しみのヒギンズ教授とイライザ……との言語指導の笑いもない。しかも野田演出や井上ひさし脚本や三谷幸喜的演出の笑いもこの『Little Voice』にはない。しかし、大原櫻子演じるローラをヒロインに仕立てる演出家の巧妙な罠が一幕だとしたら、あちきは初めてみて退屈な一幕にぼやきまくったが、それは誤りかもしれないということにおちつく。

あのエンディングの大原櫻子を見たらそして総勢6人の俳優と7人のば生バンドで見せた『Little  Voice』あの劇中クラブ観客の興奮は確かに観客をローラの歌声に巻き込みあの空間を共有した銀河劇場という素晴らしい舞台にこそふさわしかったということになる。

Crrbg6nUIAAYe9s.jpg
なぜボクシングを語るのにこんな退屈な前フリの書いたのかと、もし聞くひとがあれば、あちきはそれで十分満足だ。それこそ、あちきの存在感でありんす。井上尚弥がどうした関係者どう絡んだとかいうことが、仮にですがあったとしても、あちきにしたらそういうことはやらない方がいい、といっておきたい。それがいい結果にならない傾向にあるのは、例えばサッカーJ1で言えば浦和レッズのMやP監督やKが証明している。あんたたちは『やべっち』の存在を越えられない、ということだけは申し上げておく。本業にせいだしてくんなまし。

CxhtZ8WW8AAOFdx.jpg thumb.jpg
あちきは公言している。くまモン美子モデルは相性良い。ボクシング界で言えば、昨年大阪の上方落語まつりでもお会いしてチケット購入列で話したもしかしたら内山高志のおかんとは相性がいい。自然な話ができる間柄だ。しかしそのこととボクシングで内山高志対コラレスとのリマッチに失敗して再起するのかどうかの話は別のことだ。結果は僅差の判定負け。内山高志はKOダイナマイトのパンチを出しきれずKO負けした記憶のカウンターをもらうまいと消極的になった。途中にダウン取ってからは内山高志の流れになりかけたが、結果は負けた。そんなことを思いだすと、村田諒太のミドル級金メダリストの世界初挑戦の試合について、触れることに最大の関心を持たざるを得ないわけだが、その前にその日観戦していた横にいた男性が元プロボクサーで村田英次郎会長のエディ・タウンゼントジムの関係者だったというので、自分のボクシングファンの目について話ながらかなり上の席からの生観戦だったが、楽しんだ。

(以下続く)




追記 エディ・タウンゼントジムの会長村田英次郎は多くのプロボクサーを世界チャンピオンにしたエディ・タウンゼントをしてもチャンプにできなかったトレーナーとしての手腕及ばない「勝負運」のないバンタム級の選手としての姿が浮かんでくる。実際かつて読んだエディ・タウンゼントの逸話はあまりにも豊富過ぎてどこから切っても金太郎飴の図柄の面白さで連なり、それは彼が日本人妻を持ちあの藤猛をチャンプにして伝説の日系人。英国系カナダ人を父に日本人を母にハワイホノルルで生まれ1961年力道山の要請で日本仁招かれ力ジムトレーナーとして来日。1967年4月30日に藤猛を米国海兵隊除隊して日本でプロボクサーに育て、ロポポロを2回で倒し、藤猛の試合後の「勝ってもかぶっても緒をしめよ!」や「おかやまのおばあちゃん」への言説はあまりにも有名で伝説になったを手始めに、1969年にはフライ級の海老原博幸(協栄)、さらに1970年年末には柴田国明(ヨネクラ)をWBCフェザー級、1974年には幻の右のガッツ石松(ヨネクラ)をつくり、さらに田辺清のことを1982年Number21で語っている。

ちょうど藤猛がロポポロとやるんで、よみうりランドの山キャンプしとったの、田辺も一緒におって、走ってた。ある日、ホテルに帰って、ロビーに坐っとったの。水槽に金魚おったので、僕、「赤い金魚、きれいね」いうたら、田辺「赤い? 金魚?エディさん、冗談いうね」


田辺清はノンタイトル戦でホラシオ・アカバロ(アルゼンチン)に勝っており、アルゼンチンでタイトルマッチをやる予定だったが、網膜剥離で入院手術したけれども引退に追い込まれその代役が海老原博幸に回ってきた。しかし、海老原博幸は相手のホームタウンデビジョンで1ポイント差で判定負け。再起ならず、という不幸。その後の海老原博幸の強打者ゆえの拳の骨折やその後の海老原博幸の不幸を襲う数々のエピpソードを語るエディ・タウンゼントの話はもう涙なくしては語れない。後に同じく強打ゆえに拳の骨折で苦労した浜田剛史氏や内山高志や井上尚弥の系譜の元祖はフライ級のいち時代を作った海老原博幸にあることは、あちきのボクシングファン歴でも忘れられないひとこまであり、エディ・タウンゼントという稀代のトレーナーは赤井英和や井岡弘樹にまで連なっていることは、まさにレジェンドであるのだが、また横道にそれた。

>田辺 清(たなべ きよし、1940年10月10日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県青森市出身。ローマオリンピック(1960年)のフライ級銅メダリスト。不運な判定により五輪金メダルを懸けた決勝進出を妨げられ[1]、プロ転向後は技術とパワーのバランスの取れた逸材として世界王座を嘱望されたが、世界挑戦を前に網膜剥離を発症し無敗のまま引退。「悲劇のボクサー」と呼ばれた。(ウィキペディア)


村田英次郎に出会い、絶対にチャンプにいなると信じて育てた。しかし、英次郎はバンタム級初挑戦ではピントールと引き分け。そして3度つまりラバーマッチでチャンドラーと闘うことになるのだが、結論的には引き分け一度に二度のKO負け。

エイジロー、必ず世界チャンピオンになれるよ。この前のピントールとのタイトル・マッチ、惜しかった。引き分け。でも、エイジロー、頭シャープよ。カミソリね。いいボクサー、頭よくなければダメ。村田、四月にチャンピオンになるよ。

いま、エディ・タウンゼントジム会長の村田英次郎は自分を越えるアマチュアボクサーをスカウトして世界チャンピオンを育てるという使命を背負っているひとりだ。

村田 英次郎(むらた えいじろう、1956年11月30日 - )は、日本の元プロボクサー。滋賀県大津市出身。現役時代は下北沢の「金子ボクシングジム」に所属し、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得した。世界挑戦も4度経験し、いずれも奪取に失敗したが、うち2度はわずかに及ばず引き分けだったため「悲運のボクサー」とも称された。現在はエディタウンゼントジムの会長。身長166cm。


という追記をして、本日はNBA EASTカンファレンスのレブロン・ジェームスのCabsの試合中継を楽しむことにする。関光徳の追想はじっくり、さらに言えば村田諒太対アッサン・エンダムについての感想などは多くのことが語られ事態が動きつつあるので当面は静観したい。

さらに昨夜勘違いで夜中に起きた欧州リーグの決勝戦もあるので、そこはじっくり生観戦したい。スゥェーデンのイブラヒモビッチの凱旋出場がならなかったのは大変残念だが、モウリーニョというカリスマ監督の采配が好調ベンフィカにどういう試合をするか興味がある。セルタがチャンスあっただけに実に残念ではあるが、イアゴ・アスパスやグッディ(スウェーデン)にはやはり何かが足りなかったというのを、リーガのマドリード戦でも負けたことで感じたものだ。

posted by torayosa at 10:44| 兵庫 | 演劇 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

帝拳ジムボクサーの記憶と関光徳(ボクシング追想3)





BOXINGを語るときに何から言うかというのは話す相手によっては用心しなければならない。例えば井岡弘樹であれば、知人の雑誌編集者の社長が写真集を発売して支援していたこともあり、その出版記念パーティに本人や阪神タイガースの選手をゲストに招いたりという、いわゆる有名人招待の催しもあるので、井岡一翔の叔父の井岡弘樹の人脈の広さに納得がいくということになる。

小阪照男(こさか あきお)の憂鬱と高山一夫の壁デビー・ムーア帝拳たちの夢Plus関光徳


のパーティの招待状があちきのような者にも届き参加したことがあった。井岡弘樹が何度も挑戦して果たせなかった井岡家の悲願達成の三階級制覇チャンプ誕生ということで言えば、井岡一翔の努力と精進と自己節制の賜物であり、そのことについてはよくやったとは思う。


しかし、井岡一翔がアムナット・ルエンロンに挑戦した試合は挑戦者としてあまりにも消極的すぎて正直がっかりした。

いくらあちきがおひとよしで人魚のU・Hを横にして尻が触れ合う間柄になって観戦したといっても、それで2ポイントリードなどという悪ふざけはやめたほうがいいのは当然だ。

そのフライ級はローマオリンピックの年にはタイのポーン・キングピッチ(フィリピン)になっていたころ、日本BOXING界には軽量級の3羽ガラスが産声を挙げてきた。ファイティング原田、海老原博幸、青木勝利だ。その前に名を売り出したのが日本では中量級の小阪照男(こさか あきお)だった。ライト級の小阪照男は17歳でデビュー期待されていたわけではなかったが、気がつけば新人王戦の決勝に勝ち上がり、1958年(昭和33)から27連勝という好成績でのし上がってきた。強打のサウスポーで名門帝拳の主力選手となり、ローマオリンピックの昭和35年には日本タイトルを取り、さらに2年後には宿敵となった当時のフリィピン英雄フラッシュ・エロルデに勝ち東洋タイトルを獲得して順風満帆に成長してきた。

後にさらに4度つまり都合5度も対戦したフラッシュ・エロルデには世界タイトルマッチでは勝つことができなかった。パスカル・ペレスの壁がフラッシュ・エロルデになったのだ。しかも最初の世界タイトルマッチの相手はプエルトリコのカルロス・オルチスだった。が小阪22歳の全盛のはずが為す術がなかった。二回にいきなり左フックでダウン。四回には反撃を試みたが当たらず。そして五回オルチスの右カウンターを浴びてぐらつきさらに右アッパーカットを撃ち抜かれロープで後頭部を打つ衝撃のKO負け。




それまでの日本最重量の世界タイトルマッチはフェザー級のデビー・ムーア対高山一夫の二試合のみ。

ジュニア・ライト級に戻してのフラッシュ・エロルデとの世界タイトルマッチはさらに2年後の1964年7月27日の蔵前国技館となっていたが、オルチス戦のころから我が家にも白黒テレビがあり、さらに東京オリンピックの前にはお隣の義理もあり、親が無理して月賦でカラーテレビ買ったので、いつでもBOXING中継を家で楽しむようになっていたから、カルロス・オルチスの体が同じライト級なのに一回り骨格が大きく見え最初から小阪照男は勝てそうにないと思っていた。その通りになった。カルロス・オルチスも戦績見たらそんな強打の持ち主ではないのに、小坂に勝っての成績で44戦39勝(14KO)4敗1ノーコンテスだったのに、なんじゃこれはという世界との差を感じた試合だった。

フラッシュ・エロルデとの対戦は当時4度目。しかし勝てなかった。お互いサウスポーだったが立ち上がりは減量苦のエロルデを小阪が連打でボディを攻めてペースを握ったように見えた。中盤の七回(当時は15回制)徐々にカウンターで反撃され12回に小阪は左フックでダウン。ダメージが大きく立ち上がったもののエロルデのラッシュが少し始まったところでレフリーストップ。TKO負けしたのだ。


後年、この老獪になった日本ボクサーの宿敵を破ったのは精密機械と言われたTBSと極東プロモーション「ボクシング教室」から誕生した沼田義明の出現まで待たなければならないのだが、先を急ぐ前に高山一夫と関光徳に焦点を当てなければならない。


高山一夫も帝拳の誇るホープで1958年(昭和33)に大川寛から日本フェザー級のタイトルを取り、6年間で8度防衛選手層の関係もあるけれども相手がいなくなりジュニアライト級に上げて日本タイトルを返上。しかし1960年(昭和35)つまりローマオリンピックのころには世界タイトルマッチの機会が訪れたもののそれは減量苦でフェザー級のタイトルを返上したフェザー級のデビー・ムーア戦だった。デビー・ムーアはフェザー級としてはずんぐりむっくりだったという印象があるが確かめないといけない。

キャリアだけ見ると高山一夫の成績は92戦60勝(25KO)16敗9分7エキジビジョンだから、いまの感覚でいうなら大したことないじゃんということになる。だが、デビー・ムーアとの初戦は高山一夫の評価を大きく挙げた。破れはしたがその結果リマッチも実現したのだ。いまはボクシング中継そのものが番組的に世界タイトルマッチしか視聴率的にもスポンサーがつきにくい状況なのでテレビ勃興期から隆盛時代とは背景が違うし4団体に加えて地域タイトルに年齢制限タイトルまであり、世界チャンプの肩書も誰と試合をやったかで評価される時代に移行しているから、乱立するとライトフライ級など日本人ボクサーの独占ということになりそうな勢いである。当然、テレビ局スポンサーの問題を抱えているが、統一マッチをしないと井の中の蛙状態になりかねないのはいうまでもない。

その点、WBCバンタム級の山中慎介の防衛記録は立派というしかない。強い相手との再戦を許諾しKOで退けいまや具志堅用高氏の13回防衛に備えて練習に励んでいるのだから素晴らしいとしか言いようがない。

いままで軽量級のパスカル・ペレスの強打や小阪照男が強打のサウスポーであり、関光徳の右フックから左のストレートが凄いとか言っても生観戦で3回も見た山中慎介の黄金の左、いや「神の左」見たらはっきり言ってみんな霞むな。山中慎介は謙虚で研究熱心で自己節制も大切にしているから芸能人や有名人の付き合いでも浮かれたところはない。好感度も上がる一方だがその点では、村田諒太も例外ではない。ボブ・アラムのトップランクとの大型契約でプロボクシングに転向。テレビ局の関係もあり三迫ジムに所属したが、実質国内マネジメントは帝拳ということで円満帝拳への移籍。広報マネジメントは電通のしきり。2012年金メダリストのミドル級という世界基準では中量級の選手層が厚いクラスで、ボブ・アラムが来日して用心深くプロテストからデビュー戦まで生中継されるという異例の扱い。やっとヘビー級チャンプになりクリチコとビックマッチでお互いダウンの応酬の闘い、11回始めにラッシュをかけて逆転KO勝ち防衛をしたヘビー級チャンプのジョシュアに追いつくチャンスが巡ってきた。
DSC_5697 (640x401).jpg
とにかく2012年の金メダリストのプロボクシング転向者は着実に世界チャンピオンになっているのだ。軽量級では中国のライトフライ級2大会連続の金メダリストのゾウ・シミン。さらにライト級金メダリストのフェザー級でデビューした怪物ワシル・ロマチェンコは3戦目でフェザー級チャンピオンになり現在スーパーフェザーに上げて早くも2階級制覇して内山高志が対戦を希望していた二階級制覇を狙うニコラス・ウオーターをワンサイドで七回でTKO。さらにフォルトナにKO勝ちしてWBAの正規王者になったソウザにも圧勝の9回TKO勝ちというとんでもな技術とボディ、ヘッドの打ち分けに打たせないフットワークで3階級制覇を狙う存在もいる。さらにスーパーヘビー級から転向したジョシュアだ。いや、村田諒太が勝てばロンドン金メダリストから4人目の世界チャンピオンということになる。


ワシル・ロマチェンコは、ウクライナのプロボクサー。第20代WBO世界フェザー級王者。第23代WBO世界スーパーフェザー級王者。世界最速の2階級制覇王者。ビルホルド・ドニストロフスキー出身。 ウィキペディア
生年月日: 1988年2月17日 (29歳)
生まれ: ウクライナ ビルホロドドニストロフシキー
身長: 170 cm
体重: 60 kg
配偶者: Elena Lomachenko
階級: フェザー級、 スーパーフェザー級


アンソニー・ジョシュアは、イギリスのプロボクサー。ワトフォード出身。現WBA・IBF世界ヘビー級スーパー王者。ロンドンオリンピックスーパーヘビー級金メダリスト。距離を詰めながらの右ストレートを武器にプロデビューからKO勝ちを継続している選手。エディー・ハーンのマッチルーム・スポルト所属。 ウィキペディア
生年月日: 1989年10月15日 (27歳)
生まれ: イギリス ワトフォード
身長: 198 cm
体重: 113 kg
階級: ヘビー級


竹原慎二さんが日本ミドル級を世界チャンプにになり日本ミドル級の世界への風穴を開けたのだが、初防衛戦でウイリアム・ジョッピーにKO負けしてから幾星霜、そのジョッピーがウェルター級時代にオスカー・デラ・ホーヤとのBIGマッチにも勝利したフェリックス・トリニダードに簡単にKOされる過激な戦士が集まるクラスであり、アマチュアでも最も層が厚いクラスでだ。五輪で大会期間中すべてミドル級のウェート維持の必要な大会はプロと違った勝敗のか過酷さがあることは大会関係者ならよく知っている。

さらに言えば、佐藤幸治が帝拳に入り海外修行前提でドイツでシュトルムに挑戦したが、自身のジャブがまっくた通用せず、主導権を奪われKO負けした。また、石田順裕(いしだ のぶひろ)の挑戦した相手はゲンナジー・ゴロフキンという17連続KO防衛(通算18度防衛)したカザフスタンの怪物であり相手が強すぎた。最近もWBAの正規王者ダニエル・ジェイコブスとのビッグマッチはマディソン・スクエア・ガーデンでありKO防衛に失敗。ジェイコブスはダウンもあり善戦したが、勝ち切る試合つまり挑戦者としての気概は足らなかった。ともあれそのような相手に海外のモナコで挑戦した勇気は賞賛されるが、実力パワーの差はいかんとも仕方なかった。3ラウンドに捨て身で前へ出たらあっという間にKOされてしまった。

佐藤 幸治は、日本の元プロボクサー。福島県相馬市生まれ、千葉県野田市出身。第40代・第42代OPBF東洋太平洋ミドル級王者。帝拳ボクシングジム所属。西武台千葉高等学校、日本大学卒業。 ウィキペディア
生年月日: 1980年12月11日 (36歳)
生まれ: 千葉県 野田市
階級: ミドル級



石田 順裕(いしだ のぶひろ)は、日本の元プロボクサー。第28代日本スーパーウェルター級王者。第22代OPBF東洋太平洋スーパーウェルター級王者。元WBA世界スーパーウェルター級暫定王者。熊本県玉名郡長洲町出身。 2010年より、芸能に関してはアクアプロモーションに所属し、ファッションモデルを務めたこともある。 ウィキペディア
生年月日: 1975年8月18日 (41歳)
生まれ: 熊本県 長洲町
身長: 185 cm
階級: ヘビー級、 ミドル級、 スーパーウェルター級


フェリックス・トリニダードは、プエルトリコのプロボクサー。サン・フアン出身。ウェルター級、スーパーウェルター級、ミドル級の3階級を制覇し、1990年代を通して最強の中量級ボクサーとの呼び声も高かった。ニックネームは「TITO」。 ウィキペディア


1999年9月18日、IBF世界ウェルター級王者フェリックス・トリニダード(プエルトリコ)を迎え、統一戦。無敗のスーパースター対決として注目を集めたが、途中から安全運転にシフトしたデ・ラ・ホーヤが僅差判定で敗れ、WBC王座陥落と共にプロ初黒星を喫した。
DSC_5694 (750x502) (2).jpg

モハメッド・アリこと当時キャシアス・クレイがローマ五輪のライトヘビー級で金メダリストになりプロになっったときは有名投資家たちがシンジケートを作ったのはあまりにも有名な話だ。後に当時の弁護士ボブ・アラムはモハメッド・アリのプロモートをするようになり世界一のボクシングプロモーターになり村田諒太のプロモーションでは海外遠征ではアメリカだけではなく、マカオのコタイ・アリーナでも試合を組むなど村田諒太はアマチュアも含めると海外試合の経験が豊富な点でも抜けた存在である。5月20日の有明コロシアムのボクシングフェスの3試合の世界タイトリマッチはテニスの殿堂が翌日の大橋プロモーションの井上尚弥に八重樫東の登場もあり最高のボクシング殿堂でもあることを予感させる試合となるのだから、あちきのような元もいまもボクシングお宅と言われても恥じないミーハーとしては、楽しみがいっぱいでありんす。

あちきの好きだったボクサーのひとり関光徳については次回にじっくりと思い出を語ることにしよう。


追記 村田諒太は判定負けした。解説陣は勝っている前提での話であることを録画で知った。その後の『情熱大陸』や『クローズアップ現代』の村田諒太のその後の心境を見た。なにゃーと…とあちきなら言うけど紳士な村田諒太はモハメッド・アリのようにボキャブラリー豊富に語らず、哲学者の言葉の引用などでの知性だけで対応した感じだ。正直がっかりだ。狗HKの編集はそういうように視聴者を誘導していた。これからも引退しても五輪のスポークスマン的に電通マネジメントに利用されるのか、自身が利用できるほど大物チャンプに再び挑戦するのかは定かでない。

村田諒太のその後の人生観よりも彼がプロボクシングのどの辺りを理想としているのかによって変わる。鬼塚のような写真判定疑惑専門の日本国内限定でないのは確かだろうから、ゴロフキン対アルバレスに挑戦指名試合を組んでもらうのもいいのではないかな? 電通はたかが電通ではない広告代理店ですからな。

今回の大規模有明コロシアムの興行が負けたことで電通でも赤字なら、ウジテレビの低迷をも救えない状態なら、叩き上げのボクサーでない以上、セカンドキャリアは無数にあることだろうが、電波タレントにはなってほしくない。大阪帝拳の辰吉丈一郎の対極にある。ボクサー史上まれに見る闘争心を出さない傾向にある、ボクシング評価大好きのボクサーであることを知った次第。


CrkDnarUAAAxfi9.jpg

日本ボクシング界には小さな巨人の井上尚弥の台頭でさらに動くかどうかはわからない? ここ数年の対戦相手や飛び階級制覇でサンタ・クルスKOするとかのファンとしての願望はあるけれども…。


いまNBAファイナルの選手たちの攻防がガチ試合の面白さで推移しているときに。
ラベル:金メダリスト
posted by torayosa at 21:44| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

ボクシング原体験前史 矢尾板貞雄(ボクシング追想2)







矢尾板貞雄の記憶

あちきは矢尾板貞雄の名前を白井義男以上に知り始めたのは自分も連れて行ってもらったことが一度あったあの、扇町の大阪プールで矢尾板貞雄がパスカル・ペレスと世界タイトルマッチをするというのをラジオで知ったからだった。パスカル・ペレスは後に小さな巨人と形容されたように小柄で当時の記録を確認すると体重48・5キロとフライ級のリミットにも満たないのだが、つまりライトフライ級でリングに上がるのが常だった。しかしその強打は白井義男からタイトルを奪いさらにリターン・マッチで5回KOで葬り去ることで白井義男という戦後の国民的HEROを引退に導いていた強敵だった。




さきごろ名門米倉ジムが閉鎖されたというニュースがあったが、当時のアマチュアエリートからプロ世界に入った米倉健志の技術をもってしても大差の判定負けしているというアルゼンチンのボクサーだ。

しかも女癖が悪いときている。当時来日したホテルで女性を強姦して、最終的には示談金を支払っている。マネージャーが事態の深刻さを受け止めアルゼンチンからすぐに夫人を呼び寄せたという、とんでもな挑戦者でもあった。しかし、ロンドン五輪金メダリストのパスカル・ペレスは白井義男に挑戦したときの成績が23試合22勝21KO1分という強打者でもあった。白井義男が減量で苦しむのに対してパスカル・ペレスはライトフライ級の軽量(48・8キロ)だったから残念ながらノンタイトルでアルゼンチン遠征で引き分けたとはいえ、白井義男には過酷な闘いであったという。パスカル・ペレス28歳。白井義男31歳。


1954年(昭和29年10月24日夜に強姦事件が起こった。白井義男に挑戦するために15日に来日したパスカル・ペレスは20日にスパーリングで鼓膜が破れたと一か月の試合延期を申し渡してきた。
そして24日にホテルの女性を強姦したのだ。強姦された女性は弁護士を通じて告訴した。日本ボクシングコミッションの事務局長のK氏が奔走して25万円の示談金で示談が成立したというわけだ。しかし、そんな騒動起こして勝ってしまう勢いがパスカル・ペレスにはあったということになる。

そして試合日は11月26日、後楽園球場に2万の観衆を集めて行われた。白井義男が減量苦もあり初回から押され一回にダウンもあり苦しみ得意のフットワークが鈍り12回にも左フックでダウンするなど完敗でアルゼンチン初の世界チャンピオン誕生ををもたらしている。翌年5月30日にリターンマッチが後楽園球場で行われたが白井義男は初回に2度のダウン、4回にもダウンして5回ペレスの右フックでKO負けした。


当時矢尾板貞雄は23歳。パンチ力はないがパスカル・ペレスとの10回戦の前哨戦で勝った。「美しくスリリングな槍のストレート」の記事を見た雁屋哲氏はその当時の感想をムックの『激動のスポーツ40年史 ボクシング』で語っているほどだ。しかしあちきは当時テレビを見る機会があったのは大阪駒川針中野温泉という当時のスーパー銭湯で見るか、金持ちの級友の招待でテレビの間に鎮座させられて野球を見せてもらうぐらいだったので、力道山のプロレスのようにテレビ中継をされていたことを知らなかった。

だからラジオのボクシング中継を聴いていたのだった。家族6人でラジオは炊事場に近いところにあり実に不自然な格好でラジオにかじりついたのは、大阪タイガース対東京巨人軍との天覧試合のラジオ中継での断片と前後する。

つまり、矢尾板貞雄世界タイトルマッチは昭和34年11月5日に行われていたのだ。しかし子供時代の記憶はいい加減で調べたら6月25日の後楽園球場になっていた。

ともあれ、あの天覧試合もラジオで断片を聴いていた記憶がある。ま、連続テレビドラマの吉永小百合の赤胴鈴之助があったからかな。赤胴鈴之助の漫画から想像する千葉さゆり役が吉永小百合だったのでものすごく会いたいという気持ちになったのに、映画化された実写の赤胴鈴之助の映画は真空斬りをジャズかロックかしらない音楽で踊るように殺陣やるもんだから失望したものだ。

横道から本道に戻す。

「美味しんぼ」の雁屋哲さんが矢尾板貞雄について最高の賛辞を贈っておられたというのは、後にボクシング・マガジンの別冊冬季号のムックの『激動のスポーツ40年史 ボクシング』で始めて知ったのだ。

ラジオ中継でボクシング中継を想像するのはサッカーと同じように実に困難なものだ。しかも漫画本や少年雑誌の寄せ集め知識での想像では映画館で見るスポーツニュースのような映像は頭で描けない。後に18歳になり就職してクルマで配達したとき関光徳対ビセンテ・サルジバルのラジオ中継を聴いたころには関光徳がサウスポーでリーチがあり、その左ストレートの様を少しは想像できたが、関光徳がダウン取ったのは左アッパーカットだった。このときは流石に興奮して配達用のクルマのラジオのボリュームを大きくしたものだ。

関光徳はフライ級からスタートしているがこのビセンテ・サルジバルとの試合はフェザー級だった。しかもメキシコシティの高地での試合だったのだが、矢尾板貞雄のフライ級世界選手権挑戦はこの白井義男を2度まで破った敵討ちでもあった。雁屋哲さんはこう語っていた。



世界戦に先立つノン・タイトル戦で、矢尾板のストレートがパスカル・ペレスの鼻を真正面から捉えてぐしゃりとつぶした瞬間の写真を新聞のスポーツ欄で見た記憶がある。
ノン・タイトル戦で勝ちっぷりが鮮やかだったので、世界戦でも矢尾板は勝って新チャンピオンになることを誰もが信じて疑わなかった。それなのに矢尾板は負けた。白黒テレビ画面の中でペレスが、娼家のやり手ばばあのような夫人と抱き合って狂気するのを眺めて、私は悲嘆にくれた。
あのとき勝っていたら、矢尾板は防衛を何度も重ねる名チャンピオンになったいただろう。それなのに、何故、あのとき負けたのか。ボクシングは恐ろしいとしか言いようがない。
矢尾板のストレートは槍のように鋭く、破壊力があり、スリリングで美しかった。今のボクサーで、あのころの矢尾板のように美しく正確なストレートを打てるものがいるだろうか。
今は評論家となられた矢尾板氏を後楽園ホールでお見かけすることがある。元世界チャンピオンの肩書を持つ他の評論家には感じない熱い物を私はいまだに矢尾板氏に感じるのだが、それは敗者の美学の故ではなく、あのストレートの美しさを忘れ難いからだと思いたい。


どうだ、というコラムを寄稿されている。しかし「美しくスリリングな槍のストレート」の記憶は残念ながらあちきは知らない。矢尾板貞雄23歳、パルカル・ペレス33歳。矢尾板は弱点といわれたボディを打たれて2回に奪ったダウンを挽回されていたという。強打を打たれて動きが鈍っていた。迎えた12回矢尾板は左右フックをボディ浴びダウン。そして立ち上がり再び同じパンチを浴びKO負けした。

あちきには扇町大阪プールに2万5000人も集めた試合だったという当時の記憶はない。ただ、ラジオでボクシング中継を聴いてからボクシングに興味を持ち映画館でのヘビー級タイトルマッチのニュースが流れると大きな関心を持ちその記録を新聞や雑誌で探しだした。

いわくフロイド・パターソンに勝ったこともあるインゲマル・ヨハンソン(スゥエーデン)との世界世界選手権は試合は映画館のニュース映画で見た記憶がある。


フロイド・パターソン(Floyd Patterson、1935年1月4日 - 2006年5月11日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ノースカロライナ州出身。元世界ヘビー級王者。

強靭かつ柔軟な下半身のバネを効かせた、ガゼルパンチと呼ばれる必殺ブローの発案者でもある。日本の漫画、『はじめの一歩』の主人公である幕之内一歩の必殺技の一つであるガゼルパンチの由来は、このフロイド・パターソンが実際に使っていた技からきている。

ヘビー級としては小柄だったが、それを活かしたピーカブー・スタイルから放たれるパンチの切れは抜群で、1960年にインゲマル・ヨハンソンを左フック一撃で失神させた試合は、今もファンの語り草となっている。

21歳11か月でのヘビー級王座獲得の記録はマイク・タイソンに破られるまでの最年少記録であった。なお、この両ボクサーのトレーナーは奇しくも同じカス・ダマトである。

インゲマル・ヨハンソン(Ingemar Johansson, 1932年9月22日 - 2009年1月30日) は元プロボクサー。元世界ヘビー級王者。スウェーデンのヨーテボリ出身。愛称は「インゴ」。その強打は“トール(北欧神話の雷神)のハンマー”と呼ばれた。身長183cm。
(ウィキペディアより)

ともあれパスカル・ペレスは33歳になってもノンタイトル戦で矢尾板貞雄に負けた1敗のみでしかも一度の引き分けもアルゼンチンでのノンタイトル戦の白井義男との試合だったのだから、「小さな巨人」形容にふさわしいボクサーではあった。矢尾板貞雄との対戦時すでに52勝36KO1敗1分であり、50連勝をストップさせたのが矢尾板貞雄だったのだ。いや、パスカル・ペレスは矢尾板貞雄に勝ち9度目の防衛に成功。その後にパスカル・ペレスを負かした選手がでるのは1960年まで待たねばならなかった。しかもタイのフライ級の宿敵ポーン・キングピッチの登場で関光徳、ファイティング原田、海老原博幸らが台頭してきたのだ。それにしてもこのころになると銭湯のテレビ中継もあることを十分に理解する小学校六年生になっていたので、なんとかテレビ中継に合わせて針中野温泉まで行ったものだ。


追記 5月16日 ところで久しぶりに新橋からゆりかもめに乗ることでお台場近辺のその後にも関心はあるのだが、実はその前の関心ごとは大原櫻子主演の『Little Voice』の観劇だ。天王洲アイルや銀河劇場には行ったことがない。しかし確認したら天王洲銀河劇場から有明コロシアムまではりんかい線に乗れば近いではないか。5時には余裕で有明コロシアムに行ける。


『カノジョは嘘を信じすぎた』のヒロイン役を射止めた大原櫻子がこんなに成長しているのに驚いた。マリリン。モンローのモノマネまでできる才能は共演者にも大きな評価を得ているという。ウジテレビはこういう才能を見出した亀田誠治という偉大なプロデューサーを過小評価していないか? 社長・会長が寿司とも界隈でもたもたしている間にウジテレビは、ロックフェラーの陰謀に陥ったのかい。

あちきはフジテレビ本田朋子や平井理央にばら撒きやった経緯から考えると実に残念だ。高島彩もテレ朝のNEWSキャスターに持って行かれたら、アカンやろ、と、種まきした身としては実に複雑心境でありんす。

ところでWOWOWでBoxing世界の拡散に実績のある「エキサイトマッチ」が除々にしぼみつつあるのは
実に残念だ。ビッグマッチは確かに魅力あるが、あのマニー・パッキャオがオスカー・デラホーヤとやった前後のわくわく感が薄れつつある。

団体乱立と世界チャンプの相対的希薄さに原因があるのかもしれないが、あちきの願望としては、シュガー・レナードがマーベラス・ハグラーとのビッグマッチやったころの興奮までときを戻すべきだと感じる。そういう点では、ウォード対コバロフとのリマッチやゴロフキン対アルバレスの実現は喜ばしい。

来月CLの決勝は義理もありフジテレビ見るつもりで、来月からダ・ゾーン加入してJリーグの盛り上がりに期待しているわけですが、セレッソ大阪が親善マッチでセビージャとやるという話題もある。セビージャ監督がどうなるか知らないが、サンパオリ監督のパフォーマンスを生でみたい願望あるけど、アルゼンチンのW杯あれだけタレントいるのにピンチやもんな。


(続く)
posted by torayosa at 15:38| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月11日

 ボクシング原体験前史 白井義男(ボクシング追想)






小学校三年になり学校の近所のボタン屋つまり小さなボタン加工工場からボタンを集める遊びが流行りだした。きっかけはその近所に住む同級生が道に落ちているボタンを拾って机の上に広げて、おはじきのように遊びたしたのがきっかけだった。


その遊びには興味を少しはもったものの気まぐれで常に人の輪の埒外ないるおれは気がつけば誰よりも魅力的なボタン収集家になっていた。それは仁丹ガムで粗末な野球グローブを手にいれるためにいつの間にか面子つまり大阪ではベッタンのようにやり取りする遊びが駒川の横丁で始めった記憶とつながる時節、三年三組ではピークを迎えたころ、おれの手元にある本は教科書以外には母親から買ってもらった小学生用の分厚い百科事典だけだった。

それ以外は貸本漫画に夢中であり、四年生になるころには、駄菓子屋のお好み焼き屋に行く小遣いをためたらそこで少年雑誌を読みふけった。



どういういきさつでボクシングに興味を持ったのかははっきりとは覚えていないが、百科事典でボクシングの世界チャンピオンの項目があり、そこで日本国始めての世界チャンピオンの白井義男が誕生という記事の断片が鮮明に残ったのは確かだった。

白井義男によって日本のボクシング史が世界に開かれたというのは現在白井・具志堅ジムとして具志堅用高氏がチャンピオン育成にも力を入れており、2017年5月20日のボクシングフェスでは、久しぶりの沖縄出身チャンプを誕生さそうともくろんでいる。

「注目:デビュー以来12試合全KO勝利中の比嘉大吾の世界初挑戦。KO勝利で王座奪取となれば、日本人初の快挙、全試合KO勝利世界王者。パーフェクトチャンピオン誕生なるか?運命の13試合目に注目。」

というわけだ。他に拳四郎もライトフライ級で世界タイトルマッチをやるというわけだが、その日の村田諒太のことに触れる前に白井義男の記憶について記して置きたい。


白井義男が銀座のボクシングホールで総司令部のカーン博士と出会ったのは昭和23年つまり1948年7月のことで、あれはまだおれが一歳にも満たないときのことだった。


《それから白井義男は二年足らずで「日本の白井」となり四年目には三段跳び鮮やかに「世界の白井≠ノなりおわせた」》と記したのは中村金雄でした。

シンデレラ・白井義男≠フ記録を「文藝春秋に見るスポーツ昭和史 第一巻」≠ゥら見てみると白井義男がいかにめぐまれたボクサー体型であったかを改めて知ることになります。

112ポンド、身長164センチでリーチが身長より7センチも長い171センチという

《世界一流の拳闘家だけが持つという天分、ナチュラル・タイミング》をカーン博士に見出されたのを実感します。中村金雄はカーン博士の言葉として、


《白井君、君は普通の選手が三、四年、いや、それ以上の年月を費やして、やっと習い覚えるほどの技術をわずか三か月足らずで、よく習得してくれた。私は君に、心からお礼いう。世界一流選手でも、なかなか君ほど、完璧なタイミングに恵まれたものはすくない。その君を指導することができたことは、私の生涯の誇りになる。そして君は将来、きっと日本の誇りになる。》(書昭和27年4月 花見読本)

白井義男が日本に科学的ボクシングを導入するまでは、こういう選手は出ていませんでした。ピストン堀口という伝説のボクサーがいましたが、最後はパンチドラッガーになり事故死しています。

白井義男のことを記した中村金雄は初代KOアーティストという異名があり1933年(昭和8)5月23日には日仏対抗試合フェザー級代表決定戦でピストン堀口と対戦しています。当時ピストン堀口こと堀口恒男はまだ19歳。ところがピストン堀口は2Rにななと中村金雄をKOしているのです。

ピストン堀口の異名は機関車のピストンのように繰り出す左右の連打からつけられたのです。当時のピストン堀口の成績を調べると「馬入川鉄橋上で機関車による轢死」もやむを得ないほど試合をしています。176戦138勝(82KO)24敗14分です。

アマチュアならともかく、この試合数が科学的ボクシングよりも根性論によって支配されていたことが垣間見えます。バーナード・ホプキンスが50歳で引退しましたが隔世の間があります。

しかし先駆的な中村金雄やピストン堀口がいて、槍の笹崎こと笹崎(人ベンに黄 たけし)≠ニ戦前戦後と5回対戦。ピストン堀口に憧れて北海道から東京に出てきてボクシングを始めた笹崎は初戦時37勝1分だったが、ピストン堀口のラッシュと連打の前にKO負け。戦後5戦目にして現役復帰してきた笹崎はようやく勝っています。その笹崎が米屋の小僧のアルバイトしていたときにたまたま通ったジムが笹崎ジムであり、そこから19歳の世界フライ級チャンプのファイティング原田が育ったことはあまりにも有名です。

白井義男が世界への道を開拓したからでしょう。白井義男が世界フライ級チャンピオンのダド・マリノと対戦したのは3度あり初戦は判定負け。2戦目はKO勝ち。3度目やっと世界挑戦のチャンスを与えられて大差の判定勝ち、日本ボクシング界の金字塔になったのでした。




白井義男自身が書いた「カーン博士と私」の一文を(「文藝春秋にみるスポーツ昭和史 第一巻」から読むと1943年(昭和18)にプロ入りした白井義男がいかに、精神的にも肉体的にも合理的な考えを持ち練習をしたのかがわかります。

昭和27年(1952)5月19日にダド・マリノに世界戦で勝ち日本初のチャンピオンになっていますが、カーン博士との出会いがいかにボクシングの科学的根拠がスポーツ科学の進歩に貢献したのかを垣間みせています。


《昔ある学者がこういった。
「名人とは、常に冷静である事。そして物事には計算づくでなくてはならぬ。又身の安全を計る。例えばここにあばれ馬がいる。その足元をすばやく通りに抜ける事は名人のする芸ではない。名人というものは絶対に身をキケンな状態にさらさない。出来るだけ安全を計り、遠廻りして目的地へ着く。これが真の名人である。」
この文章に私はひかれて何度も何度も読み返し、「これだ」と思ったと同時に今まで自分のやってきた事が馬鹿馬鹿しくなって来た。という事は、従来日本ボクシングは体当たり戦法で打たれれば打ち返すという無策な事ばかり繰り返していた。将来において体をこわす事も知らずに相手の心理状態を利用し足(フットワーク)を生かした左手を有効に使い、相手にさそいをかけては打ち、相手が反撃してくればすみやかにさがる。しかしこの時、かんじんなことは、攻撃には連打(コンビネーション)これは練習時代でマスター出来る事である。例えば左ストレートを打てば右も打てる状態になっている。右のストレートを打つと今度は左のアッパーカットでもフックでも打てる。打った後、右のストレートでも打てる。これがひとつひとつのコンビネーションだ。(中略)

カーン博士のコーチを受けた時、左のアッパーカットの攻撃動作をくり返しくり返し長期間練習したことがあった。他から見れば教える者も教えられる者も何かにつかれたように夢中だったらしい。しかしこの練習のかいがあって、時のチャンピオンをものののみごとに左アッパーカットをボディに入れてKOし、全日本チャンピオンとなることが出来た。》


CtxDJLsVYAARlbp.jpg thumb.jpg
(続く)
posted by torayosa at 10:41| 兵庫 ☁| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする