2017年05月25日

王者になれなかったサウスポー関光徳(ボクシング追想4)

DSC_5697 (640x401).jpg

いま、ボクシングのWBAという老舗団体が大きな岐路にたたされている。もともと、WBAの前身1920年にできたNBAつまり全米ボクシング協会だった。その機構が1962年にWBAになり、世界チャンピオンの公認機構として各国のコミュションが参加してできた。つまり、白井義男がダト・マリノに勝ち世界チャンピオンになった時代はJBCが発足して田辺宗英が初代コミッショナーとして立会い実現した。



その後、本来はWBAの内部機構組織世界ボクシング評議会WBCが発足し、五大陸(北米、中南米、東洋、欧州、英国)の代表が問題を取り上げられるために作られた機構が、WBAの米国中心運営に反旗を翻すことで、内部分裂しWBCが1968年に発足により、アジア軽量級王者の加速が始まり中南米、アジア人の小柄ボクサーの再評価時代が始まったというのが、あった。



関光徳の前に話を端折って渡辺二郎さんの事実上の二団体統一マッチはそういう過程で実現した稀有な例だったのだ。渡辺二郎はすでにWBAタイトルを6度防衛その中には2度めの防衛戦での元フライ級チャンプ大熊との対戦もある。つまり、6度も勝ち続けると挑戦者が現れない。大熊との試合は関西初のJrバンタム級(現スーパーフライ)のチャンプとしてステップアップの試合だった。後のセルソ・チャベス戦では大阪城ホール(当時は大阪国際文化スポーツホール)を13500人の観衆に埋めるまでに知名度も上がり長身のパナマ選手を15回TKOで破り6度めの防衛に成功していた。

そして機が熟したのがWBCのチャンプのパヤオ・プーンタラット(タイ)とどっちが強いねん、という話題だった。実現に際してWBAは渡辺二郎のタイトルを剥奪しており、渡辺二郎はそのリスク承知でWBC世界タイトルに挑戦という形で実現した。渡辺二郎はその試合で苦戦したものの終盤に決定的なダメージを与え僅差の判定勝ち。WBCのチャンピオンになり事実上の統一を果たしている。大阪城ホールは公式発表1万4000人を動員。その後の再戦では11回TKO勝ち。

大阪帝拳ボクシングジムのこの歴史は辰吉丈一郎へつながるというわけだ。


ところで関光徳のことだ。長身のフライ級から始まり、フェザー級まで階級を上げていることはファイティング原田と同じだが、残念ながら知名度は高かったが世界戦や前哨戦でどうしても勝ちきれなかった。

フライ級時代は1961年6月27日蔵前国技館で実現、ラジオでキングピッチ(フィリピン)との試合を聴いたものだが、19歳の関光徳は減量に苦しみ(当時は当日計量)にサウスポーの武器の右フックからの得意の左ストレートを打てなかった。6回に受けたボディ攻撃でダメージを負い完敗した。その後バンタム級に転向したら、ジョー・メデルのロープ際の魔術師のカウンターに沈むという具合でエデル・ジョフレへの挑戦権は後の二階級王者のあの伝説の視聴率男のファイティング原田の登場を待たなければならなかった。

そして迎えた次の世界挑戦はフェザー級だった。キューバのシュガー・ラモス戦だ。関光徳はフェザー級に上げたことで減量から解放され東洋太平洋フェザー級では敵なしの勢いで22歳になっていた。1964年3月蔵前国技館のことだ。関光徳は序盤の三回までは順調だった。しかし6回にダウンするとその後ラモスに攻められセコンドからタオル投入、あちきの家の床の間に鎮座したカラーテレビの垂れ幕を降ろさざるを得ない失望の敗戦だった。


それでも関光徳はチャンスを貰った。新和ジムの神話のような話で今度はビセンテ・サルジバルに挑戦の機会が海外でやってくるのだが、1965年という時代はファイティング原田がブラジルの黄金のバンタムと言われたエデル・ジョフレに勝ち二階級制覇というとんでもなボクサーの出現で沸き返り、東京オリンピックで桜井孝雄がバンタム級金メダル獲得してプロ転向で監督と絶交状態になる話題などもあり、ボクシング界はフライ級の宿敵はポーン・キングピッチからアルゼンチンのホラシオ・アカバロになり盛況一途、テレビのボクシング中継はプロレスに変わる勢いでファイティング原田のボクシング視聴率は天文学的なことになっていた。



1966年8月7日メキシコ・シティ・エル・トレオ闘牛場で行われたというサルジバル戦には記録を調べると45000人の観衆があったという。


あちきは、どこにいたかというと松下電工の合板工場にトヨエースで初めて単独の配達をやらせれていたので、その工場の片隅で昼休みにラジオ中継を聴いていたのだ。関光徳が4回に右ジャブから左アッパーでダウンを奪ったというときの興奮は頂点に達しなりふり構わずラジオのボリュウームを上げクーラーを効かせてクルマの運転席にこもった。

配達すべき荷物は運んだ。あとは合板見本の引取だったが、昼休みなので多少の時間のズレは問題ないというので、とにかく試合終了まで夢中になった。

しかし4回のチャンスにKOできなかった関光徳は7回にダウンして反撃を許し3対0の判定負けして帰国した。関光徳のメキシコ高地での善戦は評価されこそすれ、誰もが次の機会こそ世界チャンピオンになるという期待を抱かせた。

そして迎えた再戦は翌年の1月29日再びメキシコ・シティ・エル・ドレオ闘牛場。しかしこの闘いは7回TKO負けであっさり退こられた。

いや、不運ではあるがメキシコ・シティでの闘いで当時のビセンテ・サルジバルに気後れすることなく闘った関光徳は記憶に残るボクサーではあった。

1968年1月関光徳はロンドンにいた。サルジバルの引退によりWBCの王座決定戦がロイヤル・アルバート・ホールで行われた。関光徳のアウェーの試合はどこも会場が広くこのアルバート・ホールでも2万5000人になっている。相手はハワード・ウィストン、あちきはこの試合の映像を記憶の断片にはっきり残っている。関光徳は9回に目尻をカットしたのだ。そしてレフリーは実にあっさり試合を止めTKO負けになったのだった。関光徳26歳、73戦61勝35KO、11敗1分でこの試合後若くしてあっさり引退している。今の時代は三十半ばで現役続けるボクサーはざらにいるが健康管理と栄養管理やスポーツ医学の進歩により試合数も昔より少なくなりつつあるが、昔は一年に10試合ぐらいこなす例は日本でもざらにあった。


関 光徳(せき みつのり、1941年1月4日 - 2008年6月6日)は、日本の元プロボクサーおよびプロボクシングプロモーター経験者。東京都北区出身。元OBF東洋フェザー級王者。横浜光ボクシングジム初代会長。(ウィキペディア)
posted by torayosa at 12:28| 兵庫 ☔| BOXING | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。